154 生老病呆死(27)イエスの戸籍にこだわる幼稚なボク

       ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 154

154 生老病呆死(27)イエスの戸籍にこだわる幼稚なボク

 評価の高い遠藤周作キリスト教文学作品がなぜ当のキリスト教関係者(むろん全員ではない)から忌避されているのだろう。30年ほど前になるが、雑誌『文学界』で生前の遠藤がカトリック神父で聖書学者の堀田雄康さんとやりあっている。そのハイライトを要約しよう。

 遠藤「日本のカトリックでは、遠藤にはローマ法王庁から警告がくるだろうと書いたり、どこかの修道会では私の本は売らんということになっておる。『沈黙』なんかは、ぼくの所属している教会の神父さんが、これは読まんように、ということを日曜日のミサの説教で言いますね」

 堀田「遠藤さんのキリスト像は一言でいえば、歪んでいる。いままでのキリスト教会のキリスト像、一般キリスト信者が持っていたキリスト像に対する挑戦だ。その理由はキリストが神の子である、メシア(救世主)であるということが前面に押し出されていない。」

 どうやら、遠藤のイエス像「無力な人」がゆがんでいるということらしい。もっと権威のある強い「神の子」「メシア」らしさをアピールせよ、というのだろうか。

(クリスチャン作家で著書『或る聖書』でイエス像を描いている小川国夫さんも同席しており、両者の仲をとりもつように次の発言をしている)

 小川「遠藤さんはキリストを自分たちの側に近づけてくるという方法。私の場合は、もともとキリストは遠いものだし、こちらが頼りない足取りで近づいていくといういき方。アプローチの仕方が逆になっている。奇跡に対する接近のしかたも,遠藤さんは執拗に迫り、ある程度まで断定している。私はとりあえず聖書に書かれているイエスのまま保留している、判断停止みたいなところがある」
 
 遠藤「小川さんはご自分で信者になられた。あなたのようにキリストに素直に溶け込んでいく、聖書にあるものをそのまま肯定する。私もそのようになりたい。しかし、私は母親によってキリスト信者にされてしまった。無理強いされたものを無理でなくするために自分の心の中でいろいろ作業をしなければならなかった。納得のできるイエス像にするために苦闘した。私は宗教や信仰の上で奇跡はそれほど意味を持っていないと思う。仮に子どもが病気になって、奇跡がほしいと祈って、やっぱり病気は治らず死んでしまった。だから信仰はやめるというそんな信仰なら信じない。」

 キリスト教に詳しい一流の人たちの話し合いなのだが、非キリスト信者のボクにはあまりに細部にわたり、大半はどうでもいい内容だった。大昔に書かれた聖書の語句の微妙な解釈の違いをあれこれほじくっても興味がない。それより前回まで遠藤説として紹介したように、「復活」とはぐうたら弟子がイエスの死後、なぜか生まれかわったように布教し死んでいった変身ぶりを指し、「奇跡」とは例えばコルベ神父のような自己犠牲をいうーーボクにはもうそれだけで十分だ。
 
ただ、ひとつ見逃せなかったのは、堀田神父が遠藤の作品には「神の子としてのイエスがない」と批判したことに対して、遠藤がつぎのように弁明じみた反論をしていることである。
 「イエスが神の子でなければあんなことはできなかったという気持ちは『イエスの生涯』を書きながらつねにあった。『人間対イエス』という対立関係で書いたのだ。私の『無力なるイエス』というのは、彼を取り巻いた人々の目から見たイエスのイメージです。イエスが強い人でないと、あのように最後の死まで愛の線を持っていけないはずだ。そこを誤解しないでほしい」

 もちろん、イエスが芯の強い人だったというのは当然のこととしてわかるが、遠藤がここで強調している『神の子』は堀田神父のいう『神の子』とどこが違うのだろう。ボクは遠藤の作品からイエスは「(神ではないが、)まるで神のような愛の人」というように理解して納得していたのだがそうではないのか。やっぱり「半分は神様で半分は人間」――生物界のランク付けでいえば、たとえばあの「半獣」(上半身または下半身が人間で他の半分が獣)のような存在を指すのだろうか。

 なーんだ、そうだったのか。またわからなくなった。遠藤先生が生きていらっしゃったら、ぜひ真意を質したいところだ。

 ボクが幼稚なのだろうが、イエスは普通の意味で言う「神」、いや「神の子」、いやいや、ちょっとでも「神の血」が混じっているのかどうか、その戸籍が気になってしかたがない。自分の能力不足、勉強不足を十分承知したうえでいうのだが、文献を見てもよくわからない。街のクリスチャンに聞いてもどっちつかずだ。「そういうことを白黒つけてもなんの意味があるのだ。そもそも宗教とは言葉で表現できないもの」みたいなことがボクの得た模範解答のひとつなのだが、ボクはこの一点が突破できず、いまだにキリスト教の周辺で足踏みしている。(次回に続く)