319 生老病呆死(56)「死」を超える対策その4 生死の境界をあいま

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 319
319 生老病呆死(56)「死」を超える対策その4 生死の境界をあいまいに  

 前回の補足。
 「自分の物語」をもつとは、この世の自分の生涯を解釈し、言い訳し、正当化することにほかならない。どうしようもなくボクに与えられた時代や家庭、もろもろの環境の制約のなかでボクはもっと気に入った環境を得ようと奮闘し、小細工し、計算しながら自分の時間を刻んできた。振り返ると、無数のボクの残骸が明滅している。
若かったのにけっこうずるく立ち回ったなあ、とわれながら恥ずかしくなったり、あの上役のために出世できなかった、といまでも腹が立ったりする。女性たちの顔も並ぶ。高嶺の花との思いもよらぬ熱情もあれば、軽く見てちょっかいを出しただけなのに予想外の深手にうめいたこともある。思い出す度に申し訳なさで滅入ってくる心優しい少女たちとの無残な別れも。
 そしてともかく、老いたボクはここに佇んでいる。自分を「どんな物語」にゆだねようとするのか。
 
 内田樹さんは仏教の因果を踏まえて「あなたのこれまでの経験から何か一つの因子を選び、因果関係を作ってみよう」と教えてくれている。対談相手の釋徹宗さんは「宗教とは自分の内面の意味付けにある。それにふさわしい言葉だ」と応じている。そうなのだ、物語づくりは自分の生きた内面の意味を自らに問う作業なのだ。

 もうひとつ、物語づくりに関連して重要だと思うのは、本ブログ268回に引用した玄侑宗久さんの「仏教は過去を変えることのできる唯一の思想」という表現だ。因果はつねに変転し、とどまることがない。状況しだいで意味付けも解釈もかわってくる。何事もむやみに喜ぶことも、悲しむことも、悔いることもないのかもしれない。ボクの物語とは無限無常の時空をルールさえ知らずに渡っているボクの束の間を綴る自己証明なのだ。

 さて、死を超えるボクの対策その4は、生死の境界をあいまいに、である。
 玄侑さんはお坊さんでもあるが、著書には科学のデータがふんだんに盛り込まれている。宗教といえば非科学、非科学といえば非現実の妄想、ときめつけたがる向きになんとかわかってもらおうという努力だろう。近年は宗教と科学の接近が科学者の側からも積極的になされている。玄侑さんはアインシュタインファインマンハイゼンベルク、ボーム、それに量子力学創始者であるボーアやシュレディンガーなど著名な科学者の研究やコメントを引きながら、この世に「あの世」が共存する可能性さえあることを最新の科学は示していることを力説している。

たとえばノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士のおもな業績は「トンネル」の発見だった。ひとことでいうと電子がA地点からB地点に移ったのに、A~Bの間の空間を通っていない。どこを通ったかわからない。この世ならぬあの世のトンネルをこっそりぬけたのでないかというわけだ。科学では理解できないことだそうだ。そんな例が数多くあげられている。
もっと極論すれば、本ブログ186回に紹介したように、人類の脳には生まれつき独特のクセ、ゆがみがあり、そもそも現実を正確に認識できない、という致命傷を抱えているのだ。
科学はあくまで「部分的・限界的」なことしかわからない。見えない世界があることを私たちは謙虚に認識せねばならないのだ。

 まあそんな理屈はどうでもよろしい。要するにボクの死後は満天の星であっても、母の羊水に満たされた子宮のような海であっても、あるいは案外わが家の庭先あたりであっても、…死後はあるとしたほうがボクの物語の構成には好都合なのだ。ボクが幸せに生きるために、心豊かにこの世に納得し、晴れ晴れとあの世に旅立つために、ボクの物語にはあの世がなくてはならない。あの世の定義、性格づけ、属性や形状、それだってどうでもよい。

 ただ、物語をつくるに際して、この世とあの世の境界をあいまいとする。登場人物も出来事も、往来自由。あっちへはみ出ようと、こっちへ舞い戻り、またあっちへ行こうと、厳密には問わない。好きなときに出没する。
 河合隼雄は「死者に聴くことはいい。死んだ人と話してみるのは死の準備になる。ある歌舞伎役者が死んだ師匠がみているとおもって稽古するといっているが、死人は客観的だ。すてきな方法」という意味のことを書いている。
曽野綾子は「死者の視線を意識する」としばしば表現している。
 
遠藤周作は次のように書く。
 「われわれの人生は目には見えないが、何かに包まれ、何かに繋がっているのでないだろうか。われわれの命もより大きな命に包まれていないと、どうして言えるだろうか。その大きな命がわれわれにわからないのはちょうど小説の言葉やイメージを表面的に読むのと同じなのではないのだろうか。人が死ぬときひとりぽっちで、これ以上はもうだれもついてこられない境界線がある。そこから先の期待があるとしたら、次の世界で死んだ母や兄に再会できることだ。再会の光景を真夜中などにしばしば心に描く。きっと向こうから呼びかけてくる声があるはずだが、われわれ人間にはそれが聴こえない。そのコトバを徴(注=しるし・シンボル)以外には解読することができないだけだ。これはわたしの感覚だからほかに説明のしようもない」

 曽野綾子さんにも遠藤周作にも、「あんた、うそをつくな」、とはだれも言えない。    (つづく)