317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その3 「自分の物語」をも

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 318
318 生老病呆死(55)「死」を超える対策その3 「自分の物語」をもつ  

前回の補足。
威勢よく満天の星に飛び込むのもいいが、こどもが予防注射を受ける時のように、なんでもない、なんでもない、と自分に言い聞かせながら目をつむって腕を差し出すやりかたも捨てがたい。これの方が小心者のボクに合っているかもしれない。その場合、舞台のイメージは「満天の星」から「海」に代わる。
遠藤周作がよく引用したフランスの作家セスブロンのことば。

「死のこわさは、たぶん、つめたい海に入るときのおびえに似ているのだろう。入っていくとき、われわれの体はこわばる。しかし、いったん中に入ってしまえば、そこには大きな命の海が拡がっている」

セスブロンは癌で死期が迫るなか、遺作『死に直面して』で死をこうイメージした。満天の星に比べてこちらは現実的だ。「なんでもない、こわくない、すぐに終わるよ」。母の胎内で丸くなり、目をつむり、息をひそめて何かが通過するのを待っている感じ。舞台に飛び出さねばならない歌手よりじっとしているこちらのほうが楽かもしれない。

振り返るとボクはこどものころから現在まで随分悪いこと、恥ずべきことを繰り返してきた。公私とりまぜて、うそ、裏切り、ごまかし。そのときどきに大波小波が立ちそれなりのペナルティも蒙ったが、致命傷にはならずにおかげさまで、まあ安泰な老後にいたっている。働いた悪事・卑劣・欺瞞に比べれば、現状ははるかに「生むは案ずるよりやすし」である。その経験からすれば、「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と身を屈めておれば、死の怖さだって、いつの間にか頭上を通過して、気がつくとボクはにこやかにあの世へソフトランディングーーそんな虫のいい思いもちらつく。

さて、死への対策その3は、「自分の物語」をもつことである。多くの先人がそう教えている。
ユング心理学河合隼雄は「人は幸せに生きるためには魂の物語が必要。人生の危機を論理的な説明だけで、抜け出すことは出来ない。恐怖や悲しみを乗り越えるためには物語が有効なのだ」といい、内田樹さんはさらに一歩突っ込んだ表現をしてくれている。

死ぬときはおたがい気分よく逝きたい。そのためにはこの世の未練や執着を減らすことが肝要だ。この世の執着を減らすにはもうひとつ別の世界を持つことだ。
たとえば、「魂の不滅」や「来世」や「輪廻」といった物語にリアリティを感じる人は、この世で生きる執着が縮小されるのでないだろうか。つまり、自分という個を超えた物語、眼前の世界とは別の足場を持っているということが気分よく死ぬことへのヒントになる。リアルな自分を知ることと、個を超える出会いへとつながること、これが気分よく死ぬ(生きる)コツーーというのである。

 内田さんという思想家は保守と革新、科学と宗教、いろんな考え方がごちゃまでになっていて、おもしろい。
 「リアルな自分を知る」というのは、無限永遠の時空・宇宙に占める小さく、はかないボクの生涯と想定しよう。
「個を超える出会い」とは、そんな星くずのボクだが、ビッグバーン以来150億年も大宇宙のパーツを占め続けている、大宇宙を構成する要素のひとつになっている、その真理に気づくことだ。ボクは死のうが、死後どの星へ移住しようが、永遠無限の大宇宙とともに存在している。その逃れようもない法則を自覚することだ、と理解したい。

内田さんは専攻するユダヤ系哲学者レヴィナスを引き合いに「わたしたちは世界の創造に遅れてやってきた」とつぎのように書いている。
ヨブ記のなかで主が告げるように人間性の核心は<私は私の起源に先んじて何であったかを知らず、死後に何であるかを知らない>と自覚するところにある。
「どういうルールでおこなわれているのかわからないゲームに気がついたらプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だ。自分には分からないけれど、このゲームを始めた何ものかが存在し、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ、と推論する人間の思考の方向、それを人間が本来持つ宗教性と呼びたい。

 ボクたちはどこからきて、どこへいくのか。そして一定の期間生きるというゲームをしているけれど、そのルールは? なぜ生きるのか、どう生きるのか、その目的は?
 などなど、絶対的に遅れてやってきたボクたちにはいっさい知らされていない。
 ただ、生きる舞台の演出はめいめいに任されている。
自分に合った、自分好みの物語をつくって、この世の自分を解釈し、やりすごすだけだ。
それを手土産に次の星に移っていくのだ。
(つづく)