320 生老病呆死(57)「死」を超える対策その5 ニヒルな視線 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 320
320 生老病呆死(57)「死」を超える対策その5 ニヒルな視線 

 前回の補足。
遠藤周作は亡くなった人たちと死後の再会を夢見ているが、それは自分が死ななくては実現しない。だが、ボクの場合は死ななくても自在に会える。はじめから生死の境界があいまいなのだから、別にあの世に行かなくても、死んだ両親や懐かしい人たちといつでも会うことができる。昨日も酔っぱらって夜道を帰りながら母と話していた。

母は二年前の正月に転倒し意識を失ったまま2カ月後に病院で死んだ。ボクたちにとっていい母でなく、とくに東京在住の妹との仲はさびついていた。母が救急車で運ばれたと連絡しても、妹はすぐにはかけつけてこなかった。やっと見舞いにきたのは一カ月ほどしてからだ。酸素マスクをしてひたすら眠り続ける母をベッドの両サイドから挟んでボクらはみつめた。「お母さん、H子がきたよ! ほらお母さん!」とボクは大声で知らせたが、反応はない。「ずっとこうなんだ」「もう意識が戻らないのしら」。
小声でささやいていると、看護師さんが入ってきた。「聴覚はまだ残っているかもしれませんよ。根気よく呼びかけてみてください」と親切にいってくれる。「ありがとうございます」と妹が頭を下げた。

そのときだ。突如母がろれつのまわらない幼児語で「ア・ン・ガ・ト・ゴ・ザ・マ・ス」と叫ぶように声を上げた。おまけに上半身を起こして、もう一度同じ言葉を発した。ボクらは茫然とした。妹が母を支えて元のように寝かせた。母は妹の方へ顔を傾けた。ボクには見えなかったが、「笑ってる、兄ちゃん、お母ちゃんが笑っているよ」と妹がうわずっている。「え、ほんとか」。ボクも興奮した。今度は母はボクの方を向いて泣き顔を見せた。

だがすぐに昏睡状態に戻った。「こんな話、よく聞くよなあ。作り話と思って信用していなかった。でも、ほんとうに目の前で起こったなあ」「うん…」「お前がきてうれしかったんだろ」。それから半時間ほどボクと妹は母の枕元で話し合った。妹は帰ることになり、病室のドアのところで、こどものころよくしたように「バイバイ」と母に手を振った。なんとそのとき、母も「バイバイ」と素っ頓狂な大声で手を振ったのだ。ボクも妹もぎょっとした。

母は妹よりボクを溺愛した。最後まで母を介護したのもボクだった。そのボクがいくら声をかけても母は反応しなかった。なのに妹にはバイバイまでしてみせた。また、妹には笑顔を、ボクには泣き顔を見せた。意図的に使い分けたのかどうか。――母の死後、妹とよくそのことを話し合った。最近は母に直接その理由を質すことが多くなった。母はうなずいたり、謎めいた笑いを浮かべたり、いじわるな顔をして無視することもある。ふと気付くと、いかめしい死に装束だった母が、むかしの普段着のあまり好きでなかった母に戻ってボクの日常会話の相手をしている、そんな錯覚に襲われる。母のわずかな遺産を長男のボクは分捕ろうとしたが、考え直して平等に分けた。曽野綾子さん流にいうと、死者である母の視線がそう願っていたからである。

本題に戻ろう。ボクの死への心構えその5は、「ニヒルな視線」を忘れるな。
この世なんてしょせんはフィクションなのさ、という捨て台詞を用意しておくことである。このことを端的に教えてくれたのはこれまでしばしば引用した北森嘉蔵牧師の次の短い言葉である。
「その牧師がニセモノかホンモノかを見分けるには、その牧師がニヒルかどうかを知ることだ。キリスト教はニヒル、人間への絶望から出発する」
 ニヒルでない牧師はニセモノというわけだ。荒っぽいが端的で鋭い表現である。一度は絶望の淵、ニヒルの霧をさまよった人にこそ神の愛が語れるのだ。

この考え方はキリスト教に限らない。仏教はその本家といえるし、哲学も基盤をそこに置いている。いや、とくに宗教や哲学に限らずとも、どんな分野であれ、その道を極めた人にはどこか虚無の雰囲気が漂っている。福澤諭吉のようにこの世に徹したリアリストでも、「人間はしょせん蛆虫にすぎない、この世なんて夢幻…」というもうひとつのドスを懐にしのばせていた。(本ブログ301、302参照)。この世を逆手にとって開き直るようなニヒルの姿勢はときとして現実的なパワーをもたらすのだろう。

モームの傑作『人間の絆』に考えさせられる挿話がある。
むかし、ある国の王が「人間の歴史」を知りたいと思い、学者に書物を集めさせる。学者は500巻の書物を選ぶが、政務に忙しい王は「短く要約せよ」と学者に命じる。
20年後、学者は50巻にまとめて持参する。王は時間の余裕はあったが、すでに体力気力が衰えていた。もっと短くせよ、とさらに要約を命じた。
20年後、白髪の学者は一巻にまとめた書物を持参した。しかし、王はすでに死の床にあり、読むことはできない。王は短く口で話してみよ、と命じる。学者は王の耳元で「人は生れ、苦しみ、そして死にます。王よ、これが人間の歴史です」それを聞いて王はにっこり笑って死んでいった。

この挿話を仏教評論家のひろさちやさんは次のように説明する。
「人は生れ、苦しみ、そして死ぬーー人間の歴史はわずか1行で語られる。人生の意味などなにもない。人間の一生もまた何の役にも立たない。自分が生れてこようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことはいっさい何の影響もない。生も死も無意味。人生は無意味だ」と主人公のフィリップは気付いた。「人生に意味がある」と私たちに思わせようとしているのはじつは世間だった。人生に意味なんてない。人間は生れてきたついでに生きているだけだ。そう思うと、フィリップは重荷になっていた世の中の束縛から解放され、自由と力を得た。

「ニヒル」というのは分厚い雲間からチラっと日射しが差し込むような不思議な明るさとパワーを伴うものだとこのごろボクも感じることがある。(つづく)