317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その2 満天の星に飛び込

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 317
317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その2 満天の星に飛び込む  

 数十年前、父は癌の痛みに苦しんだ。ボクが赴任先から電話を入れると、家族が「痛そうなの。この声聴こえるでしょ!」と受話器を父に近付けた。「いたい、ウオー、ウオー」と獣のような唸り声が低く響いている。通院していた。現在は在宅医療もすすんでいると聞くが、当時はそんな知識を持ち合わせていなかった。親戚の複数の医者に相談すると、「もう家で看護できる段階でない」といわれた。
苦労をかけた父だからなるだけ家で看てあげたいというのが家族の願いだった。しかし、それももう限界らしい。ボクは休暇をとって家に帰り、病床の父に事情を話した。家族の意志でなく、父自身が入院を決めたという体裁をとりたかった。
<あなたを見捨てるわけじゃないんだよ、いくらでも家で看護するのだが、あなたの苦痛をとることを考えている>。曲がりくどく話していると、父は途中でさえぎって「入院するよ」とあっさりいった。救急車にきてもらった。父はよろよろと一人で立ち上がり救急隊員の人に「ご苦労さまです」とあいさつした。手を貸そうとするボクを振り払って♪影か柳か、勘太郎さんか♪と、戦前の流行歌を口ずさみながら自分で担架に乗った。家族も隊員もきょとんとしていた。ひとりでトイレにもいけない父の最後の馬力だった。

病院の担当医に「命はもういいから、痛みだけを押さえてほしい。麻薬や鎮痛剤を使いまくってほしい」と懇願したが、当時は治療の建前にこだわって医者はいい顔をしなかった。一週間後にかけつけると鎮痛剤のおかげか、病状悪化のおかげか、やっと意識がぼやけ始めた。
手を握るボクの方を見ずに病室の窓に映える車のヘッドライトを見ながら、なにかつぶやいている。それからはっきり「戦友、水をくれ」と言い、なにか小声で歌いだした。♪中国戦線きょうも雨が降り続く、人馬ともに食べるものがない♪という趣旨のうらぶれた軍歌だ。聞き覚えがあった。元気なころの父は晩酌のあと、ときどき口ずさんでいた。
父は目の前の息子より中国戦線に飛んでいる。意識はもうこの世にはないのだ。痛みも消えたようだ。死ぬのは近い、と妙にうれしかった。余談だが、この歌は森繁久弥が哀しき軍歌と銘打って歌っている『討匪行』である。戦意があがらないと戦地では歌うのを禁止されたらしい。

あのときもっと麻薬を使って痛みを早くとってあげたかった、といまでも悔むことがある。ボクは父の二の舞はしない。どんどん麻薬だ、麻薬があればきっと怖くない(に違いない)。

ところで、ボクが麻薬の大量投与を決断するのは意識がまだ薄れていない段階だ。このときがボクの事実上の死の宣告、いや、死の受容になるのだ。
そのとき本当はボクはどんな心境なのだろう。ーーこれも山田風太郎の次のアフォリズムがうまく代弁してくれているようにおもう。

『「よし、いくぞーっ」と売り出しの歌手もどきの言葉を胸に雄叫ぶか、
または非常に弱気になるなら、はじめて予防注射を受けるこどものごとく
「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と、心に言い聞かせるかーー。』

たぶん、ボクも強気と弱気が交差することだろう。迷うだろうが、やっぱり強気で行こう。売り出しの歌手が舞台に飛び出す雄叫びの方をとろう。
歌手のほかに、もうひとつ思い出した。
むかし読んだ「人間最後の言葉」という本にフランスの元将軍の小気味のいいセリフがあった。

「この世で俺は勝ち戦ばかりだった。あの世では群衆が凱旋パレードを準備しているだろう。俺は凱旋将軍として勇ましくあの世へいく」という趣旨だった。
これもいいが、この世でほとんど勝ち戦のなかったボクに凱旋パレードは似合わない。

売り出しの歌手として虚勢を張ってパフォーマンスいっぱいに飛び出すボクの前方に広がるのはむろん死後の世界だ。死後の想像図はいくつかある。いま一番気に入っているシーンは、暗黒の大宇宙と点滅する無数の星たちに向かって飛び込む図である。ボクはそのどこかの星で、この世でそうであったように、数少ない得意とたくさんの失意と悔いを繰り返しながら、相変わらず冴えない時間を過ごすことになる。
これは京大名誉教授岸根卓郎さんと作家玄侑宗久さんの影響でいつしかボクの頭の中に出来上がってしまった「死後のイメージ」である。

岸根さんは書いている。
「宇宙空間には宇宙のチリが漂い、そのチリが集まって星が誕生する。その星も寿命が来ると死滅(爆発)して再びチリとなり、それがまた集まって新しい星となる。地球も同じ。やがてチリとなり、いつか星となり、宇宙のどこかで再び光り輝く。その星には私たちの肉体も含まれている。私たちも新しい星に生まれ変わり、新しい命を得て宇宙のどこかで生き永らえることになるだろう。だから私たちは〈星くず〉であり、〈小宇宙〉と呼ばれるのだ」
(本ブログ174「さて、つぎはどの星に生まれようかな」参照)

ポリネシア地方では、人々は夜空を眺めながら、自分が死んだら、次はあの星に生まれる、とめいめいが予告する風習があるという。
いい話だなと感心し、ボクも定年退職の挨拶状にこれをなぞったような文章を書いた。(つづく)