321 生老病呆死(57)「死」を超える対策その6 非業の死を思い描き

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 321
321 生老病呆死(57)「死」を超える対策その6 非業の死を思い描きつつ 

 「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と身を縮めておまじないを唱える。その一方で、歴史上のいろいろな他人の悲惨、非業の死を思い描きながら、「あれに比べればまだましではないか」、と自分に言い聞かせる。多分、ボクの死の床の作法はこの二本立てになるのでないか。 

 身体的、物理的に多少余裕があって感傷に沈んでいるときなら、吉野弘
「I was born」という詩を思い出すかもしれない。昭和52年に発表され、「どうしようもない傑作」と絶賛された戦後詩の代表的作品だ。そんな名詩を要約するなんてバカげているし無作法だが、すこし長いので乱暴に短くする。
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 英語を習い始めたころだった。ある夏の宵、僕は父と一緒に寺の境内を歩いていた。白い女がこちらへやってくる。物憂げに、ゆっくりと。
 女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の、柔軟な動きを、腹のあたりに連想し、それがやがて、世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時、僕は<生まれる>ということが、まさしく<受け身>である訳を、ふと諒解した.僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was bornなんだねーー受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだねーー

 父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へでてくるのかと そんなことがひどく気になった頃があってね。友人にその話をしたら ある日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡でみせてくれた。説明によると 口はまったく退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。みると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方まで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているようにみえるのだ 淋しい 光の粒々だったね。私が友人のほうを振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあって間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのはーー。
 ――ほっそりした母の胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――
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 以上である。子は生まれる意志もないのに、なぜか親は命がけで生もうとする。いったん生まれたものは必ず死なねばならないのに。人間に限らず、動物も植物も虫たちも地上の生きものはすべてこのシステムを継承している。おまけに人間はやっかいなことに、事前に死を想像し死を恐れ死を悲しむ唯一の存在だという。
 先年亡くなった医者で、思想の科学社社長でもあった異色の思想家、上野博正とは2、3度お会いしたことがある。こんなことを書き残している。

内戦、圧政、極貧。そんな国々をみると、日本の現実の老いや死にこだわる贅沢さに思いいたる。われわれ日本人の多くもかつては、極度の貧しさからくる凄惨な死、例外者的死(暗殺、自殺、獄死、刑死、野垂れ死になど社会からの離反、反抗、拒絶に対する報いとして与えられた非日常的凄惨な死)の不安に立たされていた。
われら戦中派は、ただ生きているだけでありがたいとおもわなければいけないだろう。この先も畳の上で死ねれば、少々のことは我慢する、贅沢は言わない、というのが当然ではないか。
私たちは歴史の激動から思考の方法としての虚無を学ばなかった。生きることの肯定はこのような否定に媒介されたものであろう。世を無残、醜と見る諦念にたってのみ、ものみな美しく、懐かしく見え、人を許すやさしさが出てくる。
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ボクはいまのところ虐殺、刑死、野垂れ死にの可能性はほとんどない。畳の上か、ホスピスか、病院で、合法的な手当を受けながら死ぬに違いない。そう思うと腹の底から、わずかだが愉悦に似た安堵がこみあげてくる。その安堵を対照的に確認させてくれるもうひとつの事例は実験動物たちの悲劇だ。こんな残酷なことがこの世に白昼堂々とまかり通っているのかと、恥ずかしながら最近やっとボクは知った。(本ブログの動物実験シリーズ参照)
地球の歴史をさかのぼればボクたちと同じ血筋をひく同胞をこんな無残な目にあわせて、種としての人間はいずれにせよ、ただではすむまい。「自然」からしっぺ返しを食うような気がしてならない。

 ことし7月から米国カリフォルニア州ではフォアグラの生産・販売が禁止された。テレビニュースでふたつの画面を見た。
ひとつはいやがるガチョウたちの口中につぎつぎ器具を差し込みむりやり餌を押し込んでいるシーン。ガチョウを過食させ、病的に肥大した肝を人間は世界の三大珍味と称して高値で取引している。動物虐待と批判の声が高まっているが、原発同様、ここにも利権の構造にしがみついている旧勢力の反対運動が強いという。
もうひとつの画像は、金持ちそうな太った黒人が「自分のカネで好きなものを食う、そのどこが悪い! 国はフォアグラを食う国民の権利を守れ!」とわめいていた。

人も動物たちもいまもむかしも地上は、上野博正のいう「非日常的凄惨な死」に満ちている。ボクは卑しい小心者根性だが、それを思い浮かべながら、せめて合法的な手続きで死んで行ける自分をよしとしよう。「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と唱えているうちにあの世に着陸するにちがいないのだから。
死んで不幸せになった人なんて聞いたことがない。不幸せはこの世特有の風土病なのだろう。ボクは永遠無限抱擁の時空に還るのだ。ふとカラ元気が出てくる。何も怖いものはないぞ!。親鸞のいう正定聚が瞬間風速的にボクの頭上をかすめたように思った。(しばらく中断)