312 生老病呆死(49)<死は分布>フーコー説に詩と宗教を飛翔させ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 312
312 生老病呆死(49)<死は分布>フーコー説に詩と宗教を飛翔させて

タイプD<身体の死は時間的・空間的に散在する>フーコー

 現代の代表的な思想家のひとり、フーコーは死を肉体に限定して考えた。これまで述べたとおり死の追跡・研究には死に特有の体験の分裂、矛盾がある。他人の死や、死につつある状態は見ることができるが、自分自身の死は体験することができないというあれだ。また死後のことはだれにもわからない。だから、死はこれだ、と万人を納得させる定義が打ち出せないのだ。すべての死の追跡はこの矛盾を何とか融合させようという考え方に根ざしている。医者でもあるフーコーは、精神を抜きにして肉体に限る、つまり医学的に死を規定するところから死の解明を始めようとした。

 人間(肉体)はいっぺんには死なない。死に方には順序がある。まず死が始まるのは粘膜性のところーーー口、食道、胃壁、腸管などだ。つぎに臓器の類。最後が筋肉の順に死のプロセスが進む。
 つまり、その人がまだ生きているのに例えば腸の粘膜だけはもう死につつある。逆にその人は死んだというふうに言えても、まだ生きている部分がある、死んだ人の毛髪は伸びるといったような。
 ひとくちに、「死んだ」、といっても人はいっぺんには死なない。ほんとうの死はまだこないのに、体のある部分には死がきていて徐々に体全体に広がっていく。逆の場合もある。いいかえれば、死は肉体のなかで時間的にも、空間的にもあちこち散らばっている。死は分布している。肉体に限っても、死はそんなに簡単ではないのだ。臓器移植の問題などでいまは周知のことかもしれないが、これを最初に言い出したのはフーコーである。

 こんなことを心得ておけば、私たちは家族の死でも他人の死でもそれを看取りながら「いまはどういうふうに死につつあるのだ」ということを、悲しみと同時にはっきり見ることができる。死につつある順序を知ることで、死の構造や思想をうかがうことができる。なにより死にまつわる迷妄がどれだけ除かれるかはかりしれない、と吉本隆明フーコーの功績を評価している。

 (さて、ここから吉本隆明自身の「死」の話だ。工学、詩、宗教にくわしいこの人らしい筋の進め方で死のイメージが広がっていく。その語り口をほぼ原文のまま抜き書きしよう。)

 フーコーが示したように肉体的に限れば、死は時間的にも空間的にも身体の内部であちこちに分布するものだ。「ここからが死です」、と一挙にはいえないのが人間の死である。この考え方は肉体以外についてもあてはまる。無宗教の立場から言うと、死の向こう側には世界がないはずだが、どんどん死を追いつめて追いつめて、ぎりぎりのところを追いつめながら、なんだか知らないけれど死の向こう側へいっちゃうところまで追いつめて、死の境界、ここで死と対面しているんだというところ、私たちは必然的に死を一点のように考えるわけだが、その一点も消えちゃうというかたちで、死は一種の<分布>なんだというところまで死を追いつめていくことができる。

 このように死を追いつめていくと最終的に、死の境界、死はこれだというイメージはじつはあいまいなことがわかる。死についての考え方が死の向こう側へ空間的に分布していったかと思うと、また向こう側からこちら側に還ってきたりというようなかたちで、死を境界あるいは一点のようにイメージするのはまちがいだというところまで追いつめていくことができる。
要するに、死というのは一種の分布なのだ、思考力としての分布の問題なのだというところまで死を追いつめていくのが理想のような気がする。

 これまで述べてきたえらい思想家・哲学者というのは死を非常に凝縮させるところまできたが、死は<覚悟>の問題でもないし<偶然の事実性>でもない、それは一種の<分布>の問題、思考の<分布>というか、死についての考え方の時間的・空間的<分布>、あるいはその往き還りの道をつけて、死がひとつの点のようにイメージされる考え方を破っていくということが死をほんとうに知る、もしかすると死を超えられるかもしれない問題なんだ、というところに考え方の方向性をもっていくのが大事なのでないかと考える。

 つまり、死は一種の分布で、時間的にも空間的にも死の向こう側へ考え方がいって、またその考え方がこちらに還ってくるような、そういうことをやることによって死は点だ、線だ、境界だという考え方を取り払うところまでいくのが理想だとおもう。

 (しかし、吉本は周到に「こういう考え方はこういう次元で成り立つが、死にはほかにも社会的な問題、家族的な問題などさまざまな次元が重複している。それらはまた別の次元で考えねばならない。」と念を押している。ここで吉本が述べているのは、身体的な死に対比する精神的・観念的な死の追いつめ方ということになろうか。
 具体的、医学的、物理的に死の構造を詰めていくのはフーコーに重なる工学者としての一面、その実証的なデータを駆使しながら死のイメージを飛翔し、あの世とこの世を往復させているのが詩人としての一面、さらに吉本は「仏教には一度極楽へ往って、そこからまたこの世の人の世界に還ってきて、そこで慈悲をおこなうのがほんとうの慈悲なんだ」と親鸞のことば『往相還相』を用いて、あの世とこの世の往来する場所に死を浮かばせている。(つづく)