311 生老病呆死(48)死とは? サルトルの結論はじつは出発点

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 312
311 生老病呆死(48)死とは? サルトルの結論はじつは出発点

 タイプC<死を自分の生き方に意味づけるのはナンセンス>サルトル

 無神論実存主義の主唱者で、戦後日本の思想界にも大きな影響を与えたサルトルは三十代に「死」についてとことん考え抜いた。その結果は「死は偶然の出来事にすぎない」というものだ。サルトルパスカルのパンセにある有名なたとえ話を持ち出す。

「獄舎に多数の死刑囚が鎖につながれ、そのうちの何人かが毎日他の人々の前で処刑される。、残った者は明日は自分の番かと互いに顔を見合せながら悲痛と絶望にくれている。これが人間の条件を示す図柄である」

一般には死の恐れはこうした状況からやってくると考えられている。サルトルもこの状況を認めつつも、全面的にそうとはいえない。死そのものの恐怖と、想像された死の恐怖とは別物だ。死を覚悟した死刑囚が実際には処刑されるまえにたまたま監獄にスペイン風邪が流行し、ポックリ死んでしまったーーー死というものはそういうものだという言い方をしている。
列車の例もあげている。シアトル駅を何時何分に出発するとパリ駅に何時間後に着くと時刻表に従って期待できる、あるいは希望、予想することができる。だが、偶然、途中で事故が起こり到着時間が大幅にずれることだってある。死もこの偶然の事故と同じようなものだ。死はそんな風にしか存在しない。だから論理的にいろいろ思考を働かせても、あるいは宗教のように来世とか極楽・天国がある、そんなことを救済のように考えることはいっさい意味がない。

 「死にさらされた存在である自分を意識することによって人は初めて自己本来の在り方を確立することができる」とするハイデッガーと対極の考え方だ。
ハイデッガーはひとりひとりの死を個別化し、死を「だれも私に代わって為すことのできないもの」とした。だが。サルトルはそれは死だけでない。愛する、感動する、などの行為もその機能や効果という面でみるなら同じことだ。他人だって、私に代わって彼女を愛し、家庭を営み、子どもを産ませることができるという。
また、ハイデッガーは「死の覚悟」をいうけれど、私の死は予期されない。だから予期されないこととして考慮しよう、というだけの話である。
「死の事実、死の予測が人生を貴重にする」というハイデッガーの思想をサルトルは批判した。「誕生を受け入れたように、死を受け入れるほかはない。そして人は死ぬまで生きているだけだ」と切って捨てる。

 吉本隆明サルトルがよく考え抜いたうえでこの結論にたどりついたことは認めつつも、「サルトルは結論としてそこに到達したのだが、これだったらすでに何千年も前から人類はそういうことはよく知っていた」と批判する。
 
むかしから人類史上の偉大な思想家たちが死とは何かについて一生懸命考えてきた、私たち一般大衆も死の恐れをどこかで救ってくれる人はいないかと思案したり、宗教を信仰したりしているーーその始まりは<死は偶然の事実>だというところから出発している。その偶然の意味や裏側をさぐろうとしてみんなこれまでやってきた。サルトルの結論はじつは出発点に逆戻りするだけの話。ちっとも死の問題の解決になっていない。そこからまた考えをスタートせねばならない。ハイデッガーも宗教も、いわばサルトルのこの結論からそれぞれの考えをすすめたのだ。

(ボクはサルトルの死の理屈を聞いても、ちっともためにならないし、なんの参考にもならない。死の怖さは減らないし、生きるうえでの腹の足しになるようなものは得られない。好事家のひとりよがりの趣味に付き合わされている心境になるだけだ。

 岩波の哲学・思想事典によると、死についてのこの考え方は、古代のエピクロス、近代のモンテニュー、現代のサルトルとつながる系譜らしい。エピクロスは『死はちっとも恐ろしくない。なぜなら私たちは生きているかぎり、そこには死はない。また死が出現したとき私たちは生きていないのだから死を経験することはない。死に出会うことはない。死は生とは関係がなく、なんら恐ろしいものでない』という有名な言葉を残した。モンテニューは『死は自然のどうでもいい出来事』ととらえた。

 ボクはモンテニューのこの言葉を最近まで知らなかった。モンテニューの死の言葉と言えば、『なにものにもまして死を念頭におき、死に馴れ親しもう』『いたるところで死を待ちうける』『あらかじめ死を思う』を鮮烈に印象付けられていて、心に刻んでいた。しかし、その後晩年になって理屈っぽい哲学的な思索を退けて自然にまかせる見方に変わっていったのだ。「あなたが死ぬことを知らなくてもよい。自然はその場で十分に死ぬことを教えてくれるだろう。そんなことであなたは気を病むにはおよばない。自然に任せておけばよい」となる。モンテニューのこの変容についてはのちに改めて触れたい。)(つづく)