310 生老病呆死(47)思想家たちの死の追いつめ方

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 311
310 生老病呆死(47)思想家たちの死の追いつめ方

宗教では、死後とあの世が隣り合わせに存在する。死ぬと一足飛びに「あの世」へ行くという設定で、死ぬ怖さがなくなり、安心を得る仕組みになっている。宗教以外のやりかたでは、基本的に死の怖さはなくならない。なぜなら他人の死や死につつある様子は見ることができても、だれも自分自身の死を体験することができない。死の体験は自分と他人で分裂・矛盾しているのが特徴だ。だから「これが死なのだ」、と統一的な公式や見解をまとめることができない。
死は怖そうに見えるが、本当に怖いのか、怖くなさそうに見えるが、ほんとうに怖くないのか、そこのところはだれもわからない、なんともいえないというのが真実である。死のこの特性がこんなに科学が進んだ現代でも、もやもやと怖さのベールを取り除くことができないのだ。
とはいえ、死は怖い。宗教以外で、なんとか得体のしれない死の恐怖を乗り越える方法はないものか。世界のすぐれた思想家たちは「中途半端で漠然とした自分の体験や知識」で死の実体を自分なりに追究してきた。これらを吉本隆明は4項目に分類して説明している。

タイプA <諸体験を通じて自分なりに死をつかむ>
たとえば実際にしろ、疑似体験にしろ、重い病気になる、事故にあうなどして、もはや死は避けられない、という条件を自分に設定する。死に直面した以上、死について考え抜くほかはないと自分を追い詰める。そこからさらに一歩進めて、自分はどうすれば確信を持って死を捕まえ、確信を持って死ねるか、を考える。出来る限りのルートから死を見つめ、考え、最終的にそれを確信することにする。自分なりに納得できる死の在り方、死の規定を固めてしまうのだ。
この場合、前に述べたように本来自分と他人で分裂し、矛盾する死の体験はいわば1つに融合されることになる。
(ちょっとややこしいが、ボクは305回に述べた岸本英夫先生の『死は別れのとき』の考え方に重ねてみた。すると合点がいった。吉本隆明はほかのタイプにはそれぞれ代表的な思想家の名前を出しているのに、この項目だけは、たとえばひとりの思想家の死の追いつめ方は…、という表現をしている。このタイプは大同小異、一般的に多いということだろうか。
岸本先生のケースを簡単に振り返ってみよう。
悪質な癌に冒され10年間で20回の手術を受けながら死の恐怖に対抗するすべを求めた。第一段階は、あの世の存在をめぐって自分が分裂することの恐怖である。宗教は来世はあるというが、自分の知性は否定する。だからといってないとも言い切れない。その分裂葛藤がなにより苦しい。だから、思い切ってないほうに賭けることにした。そしてがむしゃらに目前の仕事に打ち込むことで死の恐怖を忘れようとした。
だが、第二段階に「無」の恐怖が待っていた。死後の世界はない、死ねば「無」と割り切ったのはよいが、無とは何か。無をイメージする、無の概念を考える…。それはとてつもなくしんどい、むなしい作業だった。おもえば、私たちは日常生活の中で無を体験したことはない、具体的に無についてなにも知らないのだった。その無と、死を結び付けるからよけい死の恐怖が増幅するのだと気づいた。だから「死」から「無」を切り離した。無という未知の得体のしれないものを取り除くことで、死の恐怖を減量することにした。
第三段階は、自分が日常経験していることだけで、死を考えることにした。死もまた日常の体験とみなす。私たちがふだん出会っている出来事の一環として死に対応するのだ。それなら、死もまた私たちが日常に経験している普通の別れのとき、とかわらないではないか。慣れ親しんだ土地から引っ越していくこともあろう、親しい友との別れもある、サラリーマンなら転勤を考えればよい。この世は死別に限らず、さまざまな別れがある。むろん悲しいこともあろうが、時間がたつとそれは薄らぎ、人々の記憶の中に生きる。死もまたそういった日常的な別れのとき、なのでないか。だから仕事もがむしゃらにするというのでなく、自分とともに人々の幸福を考えながら、限りある人生の日々を味わいながら仕事に励む、という考え方に最終的に納得したのだった。)

タイプB<死の最前線に自分を置いて腹をくくる>ハイデッガー
自分を死の直前に置くという設定はタイプAと同じだが、それから先の発想が異なる。
Aはいろいろな体験、疑似体験を通して自分なりに死の概念、規定を具体的に固めていく。
一方のBは「自分はいつでも死を控えた存在である」という覚悟を持つことに重点がおかれる。つねに死の可能性が見えているという心の状態で生きていく。それができたら、死についての考え方を極限までよく知った、ということになる―――これはドイツの哲学者ハイデッガーの考え方だとしたうえで、「自己意識を明敏にしたまま死について考えるということになると、このあたりが限度だとおもう。これ以上追い詰めると、あとは宗教の領域にはいってしまう」と吉本は述べている。
(宗教の領域に入る…のくだりについて。
死を考える際、哲学、思想的な立場ではあくまで人間の論理や既知の要素で構成するのに対し、宗教は非論理的な神仏とか、人間には未知で絶対的な存在を導入することを指しているのだろう。)==(つづく)