309 生老病呆死(46)<死>の怖さを共有・公式化できないわけ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 309
309 生老病呆死(46)<死>の怖さを共有・公式化できないわけ

さきほど亡くなった吉本隆明は日本の戦後最大の思想家といわれるが、死についても多くの考察を残している。『新・死の位相学』に収められた論文「<死>の構造」に彼の考え方がわかりやすくまとめられている。ボクが勝手に小テーマをつけて要約してみよう。

『無信仰者も死を知ることで死の恐れが薄らぐ理由』
むかしから、人間はどうしたら死の恐怖を超えられるか考えてきた。その代表的なものが宗教で「死んだ後の来世はもっと幸福で楽しいんだというイメージを信じよう」という試み。それはいまも続いている。宗教以外のやりかたでいくら理念的に考えても死への恐れは基本的になくならないとおもう。偽の安心感でもいい、とにかく死への安心感がほしいというのであれば、いまの宗教を信じることで解決する。ある意味でそれは幸福だ。しかし、私のように宗教を信じられない者はそんな安心感とは縁がない。
では無信仰の者には死への恐れをなくす、あるいは減らす方法はないのだろうか。
ひとつ言えるのは無信仰の立場からでも、死についてよく考えれば少しずつ恐れが薄らいでくるという作用がある。死の恐れには一種の迷信とか迷妄がつきまとっている。それが恐れを増幅させている。死を限りなく知ることで、そうした迷信からくる恐れはなくなっていくのでなかろうか。それが宗教とは違ったかたちで死を知ることの効用といっていい。
むろん、死について知り迷信その他を払いのけても、いざ死にかけたときには大騒ぎするかもしれない。私だってちょっと熱が出るともうくたばったみたいになって子どもたちにおおげさだといわれる。人間にとって死とはそういう存在のしかたをするものだとおもう。そしてまたそういう人間と死との関係を知ることも死の恐れを和らげる手助けになる。私は宗教による幸福な来世は信じないが、死を知ることが限りなく死の恐れを少なくしていくだろうということは信じる。実際、すぐれた世界中の思想家、哲学者は若いころ、30歳代くらいからとことん死について考え抜いている。考えたからといって決定的に解決するわけではないが、少しずつ死から迷妄なところが除かれていく。そしていくら考えてもやっぱりここの点はわからない、ということを知る。それが宗教とは違うやりかたで、死への恐れを減らしていくのだとおもう。

<誕生>と<死>の怖さは同じ

 例えば、母親のお腹に胎児でいる自分を想像してみよう。4,5カ月から6カ月で少し意識が出てきて、羊水のなかだから言葉はしゃべれないが、嫌なときは嫌という反応をする。10カ月ほどで胎外に出る。栄養を補給していたヘソの緒が切られ、自力でおっぱいに吸いつく、外界も見えるようになる。環境が一変し、感覚や意識の働き方の範囲がとても広くなる。胎児の自分としてはすごい世界に急に出ていったことになる。これは生から死の世界への推移と同じくらい強烈な変化で、相当に恐いことにちがいない。赤ちゃんが、ギャーッ、と泣いて生まれてくるのはすごく怖い体験をしているからだろう。いま私たちが死ぬのを怖いとおもうのと同じくらいの怖さだとおもう。人間がほかの世界へ行ったように怖いことというのは、たぶん生まれるときと死ぬときの二回だろう。宗教は死は胎児が胎内からこの世に出てきたのと同じで、死後はもうひとつの世界があるというふうに考えている。私はそうはおもわないが、<死>の怖さと<誕生>の怖さというのは構造は同じだとおもう。

本人の意識と外見が食い違うのが<死>の特徴

ただ、生まれたとき胎内のことはもう覚えていないが、胎外へ出てからの生活はおぼろげでも覚えている。しかし、死についてはまったくわからない。自分の死は記憶もないし、体験もできない。なのになぜ怖いと思うのだろうか。それは自分の家族や他人が衰え、死んで行く様子をみて疑似体験するからだ。自分の死は知ることはできないが、他人の死に方はいろいろ見たり、体験できる。これが死のいちばん根本にある構造だ。
宗教、哲学、思想をふくめてすべての死についての考え方はこの構造によりかかっている。あらゆる死の考え方はここから始まってまたここに還ってくる。その繰り返しなのだということを頭に入れておこう。
ところで自分の死は体験できないが、病気や事故で、死にそうになるという体験は自分でもできる。この<死につつある体験>はそれぞれ固有なものだ。たとえば傍で看護している人にはとても苦しそうに見えても本人はそうでもなかったり、逆の場合もある。本人は死ぬかと思って怖くてしかたがないのに傍の人にはそれほど怖さを感じていないように見える場合もあり得る。つまり<死につつある体験>の特徴は本人の意識と、はたから見ている外見とは大きなギャップがある。

自他の体験を統一しようと多くの思想家が死を追い詰めてきた…

このように、いずれにせよ「死」の体験は自分と他人の間に大きな開きがある、二律背反しているのが大きな特徴だ。これをなんとか統一できないか、融合できないか、というのが死をめぐる思想の根本だ。自分の認識・体験と他人の認識・体験がばらばらに分裂していては「死の思想」がまとまらない。死とはこういうものだ、と確信をもって断言できないところがある。自分の中途半端な、漠然とした体験でもって、「死とはこういうものだ」、と多くのすぐれた思想家が死を追い詰めてきたーー。

このいろいろな追い詰め方を吉本隆明は4タイプに分類して説明している。(つづく)