308 生老病呆死(45)人間はなぜ寂しいのか

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 308
308 生老病呆死(45)人間はなぜ寂しいのか

帯津良一さんの死後論『虚空への旅人』説は威勢がいい。
死ぬときこそエネルギーが最高潮に達し、燃料も満タンになる。だから年を重ねていくほど身体の衰えとは逆に生命のレベルが高まるのだという。高齢者のボクらにとってはありがたい説だ。

150億年彼方に死後の世界はある。だからたとえば3年前、奥さんが急死したとき、遺体に対面すると取り乱すのでないか、と危惧したが、いざその場になると、「またすぐに向こうで会えるから」と奥さんに語りかけていた。心底そう思って、寂しいとか悲しいという気持ちは不思議になかったという。
ただ、日ごろ自分が仕事に追われ、この世でたいしていい目を見させてあげなかったなあなどとかわいそうに思った。それが不憫で墓をつくることにした。ただしその墓のあるお寺は近くに飲み屋の多い場所を選んだ。墓参りのあとはちょっと一杯やれるようにとの計算――などと陽気で前向きだ。もっとも、150億年の彼方へ旅立った奥さんに、すぐまた会えるのだろうか、もう少し時間がかかるのでないか、という疑問は残るが、ともあれ、ボクも親しい人の死に遭遇した時、こんな風になれたら、と願う。

万事、陽気な帯津節のなかでひとつだけ物悲しいくだりがある。
患者さんをみても、蕎麦屋でひとり飲んでいる人をみても(ご本人も蕎麦屋でひとり酒を飲む)みんなさみしそうだ。人間はどちらかというと明るく前向きにできていない。その理由はーー例の「虚空の旅」のせいである。人間はビッグバン以来、片道150億年の長い旅を一人でやってきた。連れはいない。みんな一人旅だ。その寂しさ、哀しさを遺伝子のどこかに遠い記憶として抱えているというのである。患者さんにもそのように言っているそうだ。多分、帯津さんは自分自身にもそう言い聞かせているのでないかしら。この話もボクは好きだ。

こんな帯津先生と岸本先生の死の見方をまぜあわせて、ボクはなんとなく気が楽になっている。もっとも、岸本先生には青臭いことは承知であと2,3、言いたい。
岸本先生の霊が休息する予定の「永遠」は、無限・絶対・超越などと同様に人知をこえたものだ。これはわかりきった話。また、宇宙や、いや、われわれの人体だって、その仕組みは科学が進めば進むほどその精妙なこと、その不可思議なことはますます増えている。わからないことのほうが大きくなっていく。これは生物学、医学、宇宙論量子論などの最新の成果が示している。とかくこの世はわからないことだらけなのだ。
先生はご自身の「強靭な知性」を自負され、知性からはみ出たところは切り捨てているが、知性でわからないことのほうが大きく多いことが次々明らかになっている。そのことをどう理解されていたのであろうか。

 心優しい先生は「自分だけの幸福というエゴでなく、ほかの人の幸福も大事だと思えば、幸福に生きるかどうかが人間の終局的な問題」であるとし、
「富、地位、名誉など社会的地位、個人の容貌、知恵、肉体的健康など外側の要素も死の前に立たせてみると、色あせて本当の幸福とはならない」
――本当の幸福とは「自分だけでなく、すべての人の幸福を含む仕事に一筋に打ち込む、その中にうまれる生き甲斐こそが幸福だ」という。
 一例として乗客も乗組員もみんなを避難させた後、沈んでいく船と運命をともにする船長の姿、あるいは金儲けだけのためでなく、履く人の幸福を心に描きながら一生懸命に靴をつくる職人をあげている。

これらは本当によくわかるし、素直に心に伝わってくる。だれにもわかるようにとやさしく表現されたのであろう。
しかし、たとえば、「われわれはどこからきて、どこへいくのか、そして生きる意味とは?」
この哲学の永遠のテーマについて、死を前にした宗教学者がどう考えていたのか、知りたかったが、触れられていない。先生は与えられてしまった生を区切って、そこだけの過ごし方を説き、与えられた意味や死後は頬かむりしていらっしゃる。
普通の人間はもっと煩悩雑念妄想に苛まれているのでないだろうか。こんなにすっきり生の前と後を切り離せるものだろうか。先生はご自分を「私は宗教を外側に立って研究することを専門にしている」と紹介しておられる。しかし、これは特定の信者でなくても、万人の関心事のはずだ。
いや、案外、先生の柔らかな温かい心の底に、「もともと生きるなんて、無意味なことだったのだよ」、というクールな諦観と虚無がひそんでいたのかもしれない、ふとそんな気もする。
もうひとつ、『祈り』についてである。
このたびの東日本大震災でも、あちこちで多くの祈りがささげられた。祈ったからといって死者がよみがえるわけでないし、放射能が去ってくれるわけでもない。しかし、人々は祈る。祈らずにはおられない。日本人だけでなく、世界各地で人々が祈りをささげた。祈りはどんな意味があるのか、どんな効果が、どんな機能が、それは先生の「強靭な知性」とどうマッチするのか、問うてみたい。

ともあれ、死への心構えを思案するボクにとって、死を前にした先生の述懐はじつに具体的で、含蓄に富む。読み返す度に新しい示唆を得る。