307 生老病呆死(44)いざ、150億年の虚空の旅へ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 307
307 生老病呆死(44)いざ、150億年の虚空の旅へ

 前回、岸本先生の「死後の世界はない。死後に<無>のイメージも持ち込まない。死は日常の普通の別れと同じ。あとはそれっきり」という死生観を引用した。これに対しボクの先輩Hさんはつぎのような意見を寄せてくれた。

岸本先生が導かれた「死は別れのとき」という結論にまったく同感です。死は生きているあいだに起きる一つの事件、しかも最後の事件であると思います。岸本先生の考えはよくわかるのですが、わからないところがひとつ。死後は「自分は宇宙の霊にかえって永遠の休息にはいる」といわれる。このくだりはついていけません。霊を出してくると「別れ」ではなくなってしまう気がします。偶然に人間を産み落とさせて、喜びや悲しみをちょっぴり味あわせて消す。これが自然なのではないでしょうか。お釈迦さんはその味わい方を教えているのではという気がします。

 Hさんは理系の出身で、万事に合理的、科学的な考え方の持ち主だ。ふだん、宗教とか神とかを話題にすると、へへへ、と鼻で笑うような印象がある。しかしこのコメントは筋が通っている、それだけでなく束の間の人間存在の悲哀が漂い,ボクなどは逆に宗教的なものを感じてしまう。Hさんは宗教学の岸本先生と「死および死後」の考え方ではほぼ一致したが、<霊>のくだりはおかしいという。せっかく合理的、知的に突き放したはずの「死後」が、これではまたあいまいな正体不明の<もやもやムード>に逆戻りといいたいのだろう。
 
岸本先生はいわば言葉の綾として、霊を持ち出したのかもしれない。しかし、ボクもこのくだりにHさんとは違う立場で一言いいたい。
「自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」という岸本先生の考え方は、本ブログ279回以降の「無限シリーズ」でさんざん引用してきた清沢満之をはじめ、多くの仏教者たちの説く「超越的存在・無限・永遠・絶対者」のもとへ、とどこが違うのだろうか。共通するイメージでないのか。

来世はあるのか、と問われて釈迦は「それはだれもわからない」と答えたのは広く知られている。キリスト教の天国・復活にしろ、仏教の極楽・地獄にしろ、あくまで寓意としてのイメージだ。知性が発達していない時代の、大衆へのやさしい語りかけの造語であったのだ。

最近、ボクの気に入っている「死後のイメージ」がある。
東大医学部卒の医師で日本ホリスティック医学協会会長などを務める帯津良一さんの『虚空への旅人』説である。帯津さんによると、「宇宙がビッグバンを起こし、生命が誕生して150億年。われわれはその片道150億年をかけてこの地球に降り立った。死ぬと今度はまた150億年かけて虚空を一人で帰っていく。死はふるさとへの帰り道の出発点だ」というのである。

生命の誕生や遺伝子の仕組みからすると、往路に関してはこの説は「科学的」だ。なぜ生命が誕生したのか、その理由そのものには諸説があっても、宇宙塵に含まれた有機物が長い時間をかけてある日、生命を獲得した。そして地球上の数千万種といわれる全生物は40億年の旅路をさかのぼると同じ親(祖先)にたどりつく。人間と大腸菌とトウモロコシは同じDNAだという。これらは現代生物学で証明されている。
(本ブログ171回の京大名誉教授岸根卓郎さん、東大客員教授などを務めた生命誌研究者の中村桂子さんらの話を参照してください。)
 
ビッグバンから現代にいたるわれわれの往路は科学的だが、死を折り返し点に再スタートするふるさと(ビッグバン)への帰路は帯津さんのロマンで設定される。

だいたいこんな趣旨だ。
死後の世界があるのかどうか、確実に答えられる人はひとりもいない。一人一人が感じる、確信する以外にない。私はあると思っている。死はこっちから向こうの世界へ行くだけだ。未知の世界へ行く期待と不安は宇宙船に乗り込む前の乗組員の気持に似ている。家族や親しい人と別れる淋しさ、つらさもあるだろう。
でも私たちは死を契機にUターンせねばならない。私たちの日々は地球を旅立つ日に備えて、飛行士として鍛えられているようなものだ。打ち上げの準備をしている。打ち上げには生命のエネルギーを高め、爆発させねばならない。この世に生きているのは、そのための修行です。150億年の距離を飛ぶ燃料が満タンになったら、修行は終わり、晴れて虚空のふるさとへ旅立つことができる。こちら側からみると、長生きしている人をうらやましがるが、あちら側からみると、「ご不幸に。まだ旅立てないでいる。何をぐずぐずしているのだろう」ということになるかもしれない。死は往復300億年の虚空の旅のひとつの通過点にすぎない…。

宇宙飛行船の譬えはおもしろい。今のところ、ボクはこのストーリーで死を納得させようと思っている。天国地獄浄土というのでなく、虚空というアドレスもうれしい。虚空は無限であり、絶対であり、永遠だ。仏教者・清沢満之風にいえば、有限のボクは同時にこれら無限の一部を構成し、死によって無限のふるさとに溶け込んでいくのだ。それはまさしく岸本先生の「宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」と同じ結論になる。ボクは岸本先生ご自身が誇られているような「強靭な知性」とは無縁な人間だが、死後の世界は期せずして同じところに落ち着くらしい。(つづく)