306 生老病呆死(43)「無」をイメージできない、だから死がいっそ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 306
306 生老病呆死(43)「無」をイメージできない、だから死がいっそう怖い

 宗教は天国、地獄、極楽浄土など死後の世界を説いている。しかし東大で宗教学を教える岸本英夫は死を前に「死後の世界」が存在する証拠がどうしてもみつけられない。死後の世界を信じることができればこんな楽なことはないとわかっていながら信じられない。死後の世界はある、ない、と迷い続け、自身が分裂するのはなによりつらい。だから、ないほうに賭けたのである。それできれいさっぱりな心境になったかというと、そうはならなかった。
 
その次に岸本教授を襲ったのは「無」の恐怖である。死後の世界がないとすれば、死というものは無に近いものになる。
 「人間には無ということは考えられない。人間が実際に経験して知っているのは自分が生きて生活しているということだけだ。その意識経験がゼロになるという状態は概念的には考えても実感的には考えられないことだ。その考えられないことを死と結び付けて無理に考えようとするから、恐ろしいことになる」と岸本は書いている。
 たしかに、ひとくちに「無」というが、具体的にイメージするとなると、わからなくなる。無の概念は極大から極小まで文字通り無際限だ。この「無」に「死」を関連させて考えるから話はいっそうややこしくなる。死について考えるとき、無というわけのわからないものを結び付ける角度は避けることにした。
死と無を分離させる、このことに岸本は気づいたのだ。

 死のイメージについて、最晩年の賀屋興宣の述懐を石原慎太郎さんが書きとめている。賀屋は戦前の大蔵大臣を務めその有能さは定評があった。彼は見舞いにきた石原さんにこう語ったという。
 「人間には天国も地獄も、来世なんてありゃしませんよ。この年になるとその実感がはっきりとありますね。人間が死んでしまった後には何もありゃしない。その何もないところへいった人間がどうなるのか、どんなものなのかをしきりに考えてるんですがね。長あいトンネルを、前後左右、だれもいない中を一人っきりで切りなく歩いていく、そんな感じがしますね。これはどうも退屈でやりきれんものでしょうね」

 来世などないといいながら、長いトンネルを一人っきりで果てしなく歩いていく、というイメージが語られている。このイメージをなんともいえないリアリティがあると評する人もいるが、死を無の眼鏡で透かしてみると、それこそリアリティのあるものからないものまで、無数のイメージが可能になる。リアリティがあればあったで、死の正体探しに人間の恐怖や苦悩は増幅されるのだ。
「無」や「死」に、リアリティのあるドラマをくっつけることを避けるーーそれが宗教学の大家である岸本の選択だった。

では、人間が実感をもって意識し認識できるものはなにか。それは結局いままでの生活で経験したことだけだ。
日常生活で私たちはたとえば転勤や引っ越しなどでいくつもの別れを経験している。愛する人との別れ、旅先でも親しくなった人との束の間の出会いと別れがある。ボクのこどものころ、♪二度とあえない心と心♪ 、たしか淡谷のり子だったかの歌が街に流れていたのを思い出す。
フランスの「別れは小さな死」ということわざも広く知られている。親しい家族や友人との別れは、自分自身の一部を亡くすることでもあるというのだ。思えば私たちはふだん大小、いくつもの別れを経験している。「もう一生会えない」と悲しみにくれながら、それでもその別れに耐えてきている。

本物の死も、こういう日常にあふれる普通の死と思えばよいのだというのが岸本先生のたどりついた死への覚悟である。
こうした別れに耐えられるのなら、死という別れにも耐えられるのでないか。
来世はないと割り切ったうえで、「死」を「無」などという余分なイメージでふくらませず、馴染みのある、生活実感の伴う日常の経験の範囲内で想定しようというのである。「死は(日常の)別れのとき」なのである。

ただし普通の別れには次の行く手がある。行く手を考えながら別れることができる。だが、岸本先生によると、死という別れには行く手がない、その先がない。これはどう処理すればよいのだろう。
此岸にいるわれわれの持ち札はこれまで自分のやってきた人生経験だけだ。それだけで対応しなければならない。

そういうわけで、岸本先生はこう開き直る。
「自分の心を一杯にしているのは、いまいる人たちとの別れをおしむということ」。自分の生きてきた世界に後ろ髪をひかれるからこそ、最後まで気が違わないで死んでいくことができるのでないか、死とはそういう別れ方だと考えるようになったのである。
死と無を一緒に考えていた時は自分が死んで意識が亡くなれば、この世界もなくなってしまうように錯覚していた。しかし、死とはこの世に別れを告げるときと考えると、自分の死後もこの世は存在し、自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいるだけである。――「これが死に対する私の大きな転機となった」と書いている。(つづく)