313 生老病呆死(50) 資本主義の未来と、「往相還相」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 313
313 生老病呆死(50) 資本主義の未来と、「往相還相」

 肉体の死を医学的物理的具体的に説いている最中に、降ってわいたように親鸞の『往相還相』が出てきた。吉本隆明は自らを無宗教、無信仰といい、あの世は信じないといっている。そして「親鸞もほんとうはあの世なんか信じていなかった」とも書いている。吉本は親鸞の影響を強く受けている。それは自身がつねづね述べていることだが、無宗教の吉本が、死を科学的に定義しようとするとき、仏教者親鸞を、そしてあの世この世・浄土がらみの『往相還相』の思想を援用しようとしているのだ。ふいをつかれた気持ちがした。

 『往相還相』はとても有名な言葉だが、長い間ボクは理解できなかった。
 あちこちの文献を読みあさった。
 仏教辞典には「浄土教における2種の回向のあり方。仏教者が自己の功徳を自分以外の方向に向けて、生きとし生けるすべての存在にあまねく施し与えてゆき、ともどもに浄土に往生せんとする願を立てるのが往相、それとは逆に浄土からこの罪に汚れた現実世界に帰ってきて、生きとし生けるすべての存在を導き救って仏教の真理に向かわせるのが還相である」――これは中国の曇鸞や、老子荘子の考え方を根底に置いているそうだ。

ボクがわからないのは<浄土から帰ってきて…>の文言である。素人向けの解説書をいろいろあたったが、ほとんどが上記の辞典と同じように紋切り型の説明だけだ。なかにはたとえば、「仏の心をもって人々に対応する」とか、「俗世間の価値観を超えて」といくぶん柔らかい解説もあったが、やっぱり抽象的でピンとこない。

吉本隆明の本もいろいろ読んだが、ボクのような素人がずばりわかる「往相還相」のストレートな説明はなかった。ただこれに関連してひとつわかったのは「正定聚」という概念である。これも親鸞の言葉で「信心が固まったとき、その人は必ず浄土へいける。それが保証されたポジション」を指すそうだ。それまで一般にいわれていたのは、浄土とは死んで初めていける場所だった。親鸞はそれを否定し生存中であっても、信心が定まったとたんに浄土行きが確保される位置の存在を主張したのだ。吉本は「それはいわば、皇太子の位を指す。この位に達した人は死後、天皇の位=浄土に行く=になるのが決まっているような位置」と書いている。
一方で吉本は「親鸞は死後の浄土など信じていなかった。あの世よりこの世の幸福をこそ願っていた」と言っている。
なるほど、親鸞のいう浄土は正定聚を指すのか。死後の世界ではなく、この世とあの世の中間点にあるのが、親鸞のいう浄土なのだ。この世をある程度生きてきてそれなりに酸いも甘いも経験し、ぼつぼつ死が近づいてきた年代をいうのだろうか。それはそれで興味があったが、しかし、かんじんの往相還相に結び付けて具体的にイメージすることはできなかった。以来最近まで20年以上もあいまいなままずるずる過ごしていた。

それが先日、紀伊国屋書店にいくと、亡くなった吉本隆明の特設コーナーがあり、吉本の著書が一堂に集められていた。そこで『吉本隆明が語る親鸞』という手造りのような体裁の粗末な本をみつけた。発行所は糸井重里事務所となっている。プロローグに吉本とコピーライターの糸井さんが2011年7月に行った対談が掲載されている。それによると、糸井さんの主宰するウエブサイトで吉本の「親鸞の話」を連載しているが、とても評判がよい。ふだん、親鸞なんかとは縁遠い人たちにも読んでもらおうとこの本を企画したという。
たしかに読みやすく、わかりやすい。ボクもなんとなく往相還相の現代的解釈ができたような気になった。

 この本で吉本は、往相とは「緊急課題」で、こちらからあちらへいく課題。
 還相とは「永遠の課題」で、時間的に言えば未来、親鸞的にいえば浄土、あるいは死からの光線で照らしだしてみなければわからない問題だと規定している。これでもまだもやもやした定義だが、もともと宗教用語だ。なんとなくわかったことにしよう。往相とは当面の現実問題として取り組まねばならないもの、還相は当面のことよりさらに未来にさかのぼる本質的なテーマとして考えねばならないもの、という風に解釈しておきたい。

 吉本は両者を比較する現実的で、この世的な具体例をひとつあげている。
 たばこや酒、麻薬がからだに悪い、良くない、と説くのが「緊急課題」(往相)。
人類は古くからこれら嗜好品や麻薬がからだに悪いと知りながら、なにかきっかけがあるとそれをたしなむようになるのはなぜか。それは人間性にとってどんな意味があるのか、何なのかを探るのが「永遠の課題」(還相)。
 
ある社会的出来事、ひとつの課題の中に両者の問題点が必ず入っている。一見、表面的な緊急課題にみえても、そこには永遠の課題が入ってきている、それが非常に重要なのだ。緊急の課題については緊急に応じればよいが、永遠の課題もそれで解決されると思うのは間違いだ。たとえば、バブル期にある人が金を儲ける、「俺は豊かになった。まあ困らない」で緊急課題は終わるが、永遠の課題は残る、といった具合である。
 現在は、往きの過程(往相)で見たらそれでよい、還りの過程(還相)で見たらそれで済んだというのでなく、両方の見方を同時に行使しないと事の本質はわからないという問題が多く出てきている。
 グローバル経済のシステムの中で資本主義が今後どのように発展拡大していくのか、その見通しがどれくらいまではわかり、どのくらい以降はわからないのか。かつて親鸞マルクスが考えたようにだれかがいまの時代を見ながら過去、未来を照らしながら考えていくやりかたをしないとだめだ。従来の考え方をそのまま適応できないのだ。

親鸞マルクス、資本主義が同じ舞台に登場するのはちょっとした驚きだ。 
さて、吉本は高齢社会が提起する還相(永遠の課題)は何か、と問うて、それは「死をどうやって超えるか」であると話を進めている。(つづく)