314 生老病呆死(51)死の方向から現在の自分を照らし出す

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 314
314 生老病呆死(51)死の方向から現在の自分を照らし出す

 死を超える、死の恐怖を除く、あるいは減らすためには、死にまつわりつくイメージや虚飾、もやもやをとるに限る。それには死の実体を刻むように追いつめることだ。吉本隆明フーコー流の解剖的手法を援用して、死をいろいろなレベルに分類し、課題を示し、その課題を解決することで死はある程度超えることができる、死は克服できる、という。
死について解決すべき課題は、家庭的な問題、社会的な問題、精神的な問題などいろいろあるが、吉本はもっとも現代的なテーマである「高齢社会」と「往相還相」を次のように組み合わせて追求の実例を示している。

日本の老人は働きたいという人が先進諸外国に比べて多いという統計結果がある。経済的理由のほか、事情はいろいろあろうが、高齢社会の緊急課題としては老人に社会が門戸を開くとか、働き口をつくるなどは高齢社会の緊急課題(往相)にあてはまる。
一方、高齢社会における永遠の課題(還相)とは何か。それは「どのように死を超えるか、克服するか」である。この課題も、社会的な分野から個々の内面の分野までいくつかにわかれるが、一つ一つ整理して追いつめていく。

○社会的な分野で死を超えるとはどういうことか。
ここにひとつの統計がある。経済的、知識的、環境的にも恵まれた働く高齢者層900人を対象にしたアンケート調査で、第一の質問は「いま自分がしている仕事をどう思うか」。これに対し70%の高齢者が「これからも第一線で続けたい」と答えた。第二の定年制についても80%が「65歳に延長すべきだ」と回答。
このほか家庭生活について。「老後は経済的にも精神的にも子どもから独立するべきだ」と考えている人が95%。「子どもへの干渉は一切しないようにするべきだ」、「夫婦単位の生活がいい」がそれぞれ60%。

これらのデータを踏まえて吉本はつぎのように結論付ける。
これらの人たちは老齢を迎えていかに死を超えるか、という問題について社会的レベルではもはやかなりの部分が解決していることを意味している。このような望ましい生活態勢を確保したときには、自分の家族の様式を保ちながら、子供たちにも精神的、経済的にも頼らず、やがて老後の終わり「命が果てたら、それが死だ」という構えを半数以上の老人がとっている。
これはごく少数の恵まれた老人たちのケースだが、大部分の老人たちがこういう考え方を持つようになり、それを自分の生活様式として確立することが実現したら、それは社会的な層で「死を超えた、死を解決した」といえる。むろん、子どもの家族が経済的に困窮しているとか、精神的に家族とうまくいかない、などのケースもあり、そのときには死を超えたとはいえない。だが、少なくとも社会的な課題としては解決したというのである。

○つぎに精神的な課題について吉本はつぎのように説明している。
私たちは本能的に死がいやだ、こわい、とさまざまに悩む。その解決法のひとつとして、死後の天国や浄土を想定した。この発想はこちらからあちらへ。つまり現在の年齢の方から死の年齢へだんだん向かっているという方向で死を考えている。「やがておれたちはもっと年をとり、やがて病気になり、死ぬと決まっている」。言ってみれば「往きの道」(往相)で死を考えている。鎌倉時代の僧侶たちは、早く死んで浄土に往くのがいちばん、と断食したりしたが、これはいわば緊急課題として死を見ている。

もうひとつ別の見方。時間を逆にして、死の方から現在を見るという考え方がある。老人が、自分はこれから死の方に向かっていく(往相)というだけでなく、向こうの方からこちらへ向かってくる視線で自分とこれからのことを照らし出す(還相)。
こういう考え方を獲得することができて、老人が精神的に自在に向こうからの視線で現在の自分を見、こちらからの視線で死の方を見る。こういうことが可能になれば、死についての精神的な問題は解けるのでないか。そして、たぶん精神的な解決策はこれしかない。これが死をいかに超えるかという永遠の課題である、と吉本は言いきっている。

ボクが死についていちばん関心のあるのは精神的な課題だ。それ以外の社会的、家庭的、経済的課題・諸条件もたしかに重要だが、やっぱり端役だ。その最重要な精神的課題についてもっと具体的に聞いてみたいが、しかし、死はなにものにもまして個人的な出来事だ。千差万別の個人の環境、思想、歴史が集約される場所だ。一般論しか書けないだろう。吉本の空白部分は各人がそれぞれ穴埋めしていくほかはない。一般論に限っても上記の往相還相の考え方にボクは強く惹かれる。本ブログ301、302の2回にわたって書いた福沢諭吉の二重視点法に共通する考え方だ。当時はまだ親鸞の「還相」についてよくわからず、福澤諭吉の方からアプローチしたが、今回は福澤諭吉親鸞ともにそれぞれよくわかるようになった。生きる極意を教わったような軽い興奮がある。いずれ、この発想を応用したボク自身の実生活での死を超えるための実践ぶりを書いてみたい。

○つぎに吉本は、これらの課題が解かれた後、死の問題で残るのは<身体の偶然性>だけだという。これは<自然>を完全に解かねば解決できない。人間には不可能な問題だ。だから永遠の課題からも漏れてしまうとしている。
他人の死は見たり経験することはできるが、自分の死はだれも経験することはできない。これらをめぐる死の形式については古来哲学や宗教のさまざまなテーマになってきたが、むろんまだ何も解決されていない。(つづく)