189 宗教と科学(13)宗教を持ち、科学を持つ唯一の動物

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 189

189 宗教と科学(13)宗教を持ち、科学を持つ唯一の動物

 前回までの『論点としての<生命>』のほか、東大教授の清水博さんは専攻の「生物システム学」を媒介に宗教と科学の関わりをいろいろ書いている。古書店で『生命科学と宗教』という論文をみつけた。20年ほど前に発表されたものである。書き出しの「宗教を持つ動物は人間だけではないだろうか。また科学を持っている動物も、人間だけだろう」のくだりが何やら意味ありげである。前著と重複するのを承知で紹介する。

 宗教と科学は水と油の関係に見えるが、ともに人間だけが持っているモノだ。その本質は案外近いところにあるのでないかと前置きしたうえで、清水さんはつぎのように述べる。
 
          科学の発達で宗教は衰えた

近代になって宗教は衰微した。その最大の理由は科学の発達だ。科学によって合理的、客観的にモノを見ることを学んだ近代人には例えば聖書の記述がうのみできなくなった。
 地動説を唱えたガリレオは教会から迫害を受けた。聖書に描かれた神の世界を否定したからである。
ダーウィンの生物進化論は一般的にはなかなか受け入れられなかった。天地創造の物語に反するからである。
聖母マリア処女懐胎、イエスが示した様々な奇跡など聖書の記述を科学的な立場から不合理と考える人が多い。
 また仏教の輪廻、死後の意識の存在についても科学的に不合理と受け入れることができない人も多い。(ボクの注・原始仏教は輪廻や死後の存在に触れていないが。)
 生命の神秘さえも分子生物学の著しい発展で解明されるという考えが広く受け入れられている。

          死が隠れて宗教は縁遠くなった

 一方、医療技術や医薬品が進んだことで、人間の死亡率が激減した。人々から死が遠くなった。人間は死に直面し、命のはかなさを思うときに自分が生きていることの意味とふしぎさに目を向ける。日本の中世に鮮烈な宗教家が多く生まれたことはそれを意味しているのだろう。宗教は死と生を考えるものだ。
 科学が発達すればするほど、宗教は遠ざかるのであろうか。
 宗教は科学よりはるかに古くから存在した。昔の人々の解釈が近代科学と矛盾してもそれはやむを得ない。重要なことはその本質が科学と矛盾するかどうかである。

     コンピュータを使っても〈美〉は計測・規定できないワケ

 科学や技術が取り扱うのは正確に規定できる問題である。近代の合理思想も規定できる問題の延長線上に築かれてきた。
ところが、「美しい」という概念は規定できるだろうか。だれもが理解できる真実味を持っているが、コンピュータをつかっても正確に規定することはできない。同じものでも、美しいと思うか思わないかは、そのときの意識や感情の状態で異なる。むろん人によっても異なる。
これは自分の意識や感情と「美しさ」の概念が切り離せないからだ。相手を自分と切り離し、対象化してはじめて客観的な規定が可能になる。 
 
        [科学・技術]と[宗教・芸術]

[科学・技術]と[宗教・芸術]はもともと性質やあり方が違う。それなのに近代人は科学に対するのと同じ物差しで、宗教を計測した。そこに宗教への誤解と偏見が生じたというのだ。
このくだりをそのまま抜き書きすると「近代科学や技術のような規定可能な問題に関する真実性は実在的な真実性であり、芸術や宗教のような規定不可能な問題における真実性は、意味的な真実性である。宗教に関する近代人の誤解は、結局、宗教を実在的真実性という観点から理解し、評価しようとしたところにある」

科学は実在的であることが価値の中心だが、宗教は実在より〈意味〉が価値の中心になるということだ。宗教は科学のように自分と切り離して観察することはできない。自分の心・感情・意識のなかに宗教は存在するのだ。それは客観的な物差しで測ることはできない。それは自分の価値観とともにあるのだから。

         同僚科学者との宗教・科学問答

清水さんは同僚たちとよく宗教や科学について議論をした。意外にも多くの科学者が「科学の進歩には限界がない、努力し続けることで宇宙と人間に関するあらゆる問題を解くことができる」と信じていた。そんなとき清水さんはこう問いかけるのだそうだ。
「なぜいま君は、この時この場所に生きているの?」

 その答えはだいたい「両親が自分をつくったからさ」とくる。
これは科学的な答えとしては実在的な真実性を語っている。
しかし、つぎに「両親によって生まれたのはなぜ君であって、君の兄弟ではなかったのか。君自身という自己意識を持った存在が、宇宙の変転の長大な歴史の中で、なぜいまこの短い瞬間だけ存在し、その前にも後にも存在していないのはどう説明できるのか」
すると、同僚科学者のみなさんはだれもうまく答えられないのだそうだ。
自分の意識は規定不可能な分野だから科学的に規定して説明できないからだ、と清水さんは説明する。(つづく)