190 宗教と科学(14) 宗教的自覚と科学的正解

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 190

190 宗教と科学(14) 宗教的自覚と科学的正解

 なぜ自分はいま、ここで、生きているのだろう?
 なぜほかのだれかでなくて、自分がここにいるのだろう?
 長大な宇宙の歴史のなかで、一瞬の存在であるはかない自分が、いま、ここに、いるワケは?
 これらの問いを科学は解くことができない。これらの問いは「意味」を問うているからである。意味を深く追求していくのは宗教の役割である。

           科学では解けない問題

 同じように「美しいということはどういうことだろうか?」という問いも科学は答えられない。その意味を追求していく行為が芸術をつくる。
 「正しいということは?」の問いにも科学は答えることができない。これは倫理学の分野だ。規定不可能な宗教・芸術・倫理学の類はいずれも科学の領分でないのだ。

 宗教と科学は対立的にみられるが、しかし、それでも両者は本質的に共存しているところがある、と清水博東大教授(生物システム学)はつぎのように書く。

 「科学のように規定可能な問題はそれを強く意識しないでも生きていくことができるが、(生死・宗教のような)規定不可能な問題は人間ならば、いつかはそれを問いかけずには生きておれない普遍性を持っている。芸術や倫理的真実が、科学的真実と矛盾しないのと同様に、宗教的真実もまた科学的真実と矛盾しない形で存在し得る」
 このあたり、ちょっとわかりにくいが、前後の文脈から補足すると、人間は生死や美しさ、正しさ、といった規定不可能な問題(非科学的分野)についても、苦悩し、迷い、試行錯誤を続けながら自分にふさわしいイメージを追い求めていこうとする生きものである。その真実を追求していくという点が、正解を追求する科学と似ている、という趣旨のようだ。

 もっともかつてのエジプトの太陽神やギリシャ神話に出てくる神々のように具体的、具象的に規定された神なら、神の存在は科学的合理精神と対立する。しかし、釈迦、イエスマホメットなどによってもたらされた神仏は、個人の自覚の中に存在する規定不可能な存在であり、具象的に表現することはできない。具象化をおこなってもそれはシンボルとしての意味を持つだけである。このような宗教は科学と共存できるというのが清水さんの主張である。

      思考、模索、苦悩のはてにたどりつく神のいる場所

 なぜなら、具体的に規定された神はいわば完成品で、そこには個人の思考や苦悩や自覚の入る余地がない。そうではなくて、個人が生と死を見つめ、よき生き方を模索し、奮闘し、大いなるものに祈り、ある自覚にたどりつく。それが神だ。神は個人がそれぞれのプロセスを踏んでたどりつくものだ。プロセスを経由して結論にいたるところが科学との共通点だ。

 宗教的自覚に至るプロセスについて清水さんはつぎのような趣旨を述べている。
 「なぜ自分はいまここに生きているのか?と自分自身に問いかけることは、自分と周囲(世界)との関係を問うことだ。その世界とは客観的な実在的な宇宙や世界ではない。自分の意識と外界の諸関係が複雑に関係し合った構造をもつ、いわば世界マップである。マップは多種多様な意味を持つ要素や情報が入り乱れ、つねに変化している。自己意識が生まれ、統合をめざすが、自分の中で調和の実現に向かって絶えず働きかけている力を意識することができる。この働きかけこそが宗教でいう神もしくは仏、あるいは癒しであり、ときには刺(とげ)なのである」

          矛盾しない宗教、文化、科学

 この神の働きは自分の内部から自覚を促すように働きかけてくる。
キリスト教では自分の内部にイエスが生きているという復活思想となり、仏教では万物に仏性があるという考えを生む。
では、たとえば刺はーー清水さんは夏目漱石の小説『こころ』の先生のケースをとりあげる。先生は自分の中の真実の声に耳をふさぎ、友人を裏切った。その悔いが刺となり、苦しみから逃れるために自殺した。
また、その刺は使徒パウロにイエスとともに生きることの意味を教え、彼に最も厳しいイバラの道を鮮烈に生きる人生を選ばせた。
あるいは、親鸞の厳しい生きざまも神仏の働きかけと刺に導かれてのものだろう。

自分の意識の中の(自家製)世界マップのなかで、調和の実現を促す働きに身を任せ、自我を捨てて協調していく。このとき自分は神や仏の「永遠の命」の中を生き、また生かされているという宗教的自覚に到達する。この宗教的自覚は科学と矛盾しないと清水さんはつぎのように書く。ボクには少しわかりにくい言い回しがあるのでそのまま抜き書きしよう。

「このような宗教的真実性を受け入れるかどうかは結局、各人に任されている。それはこの世界に多数ある文化の中でどれをとるかは、本質的には個人の選択であることと似ている。それは意味的な真実をどこに見るかという問題である。どれをとっても、そのことによって科学と矛盾することにはならない」
(つづく)