188 宗教と科学(12) 世界は特定のルールで規定できるか!? 

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 188

188 宗教と科学(12) 世界は特定のルールで規定できるか!? 

前回まで紹介してきた清水博・東大名誉教授(生物システム学)の『論点としての〈生命〉』の結論部分を、例によってボクの半知半解の荒っぽい要約で紹介する。

人間の思考形式には二つの立場がある。
ひとつは、世界(生物のシステムや、諸現象も含めて)を論理的に説明できるようなルールが存在すると確信して、そのルールから世界のすべてを理解していく立場。

もうひとつは、そのような不動のルールは存在しない。世界は本質的に無限定で、万華鏡のように絶えず変わっていく。その状況に応じてルールを刻々と創り出していくことでしか理解できないとする立場である。

前者の立場をとるのが、近代科学だ。
この考え方に立つと、世界を規定しているルールを理解するには、それ以前の、より基本的なルール(約束事)を理解せねばならない、さらにそのルールを理解するには、それ以前のルールを理解せねばならない、という具合につぎつぎ前段階のルールを探っていかねばならない。
(こどものころ、「ボクはなんでおとうちゃんの子供に生まれたの?」と、父に問い、しどろもどろで答える父に、それから?それから?と問い続け、しまいに答えに窮して父が「しつこいやつだな!ええ加減にせい」と怒りだしたのに似ているのだろうか。)

こういう問答はいわゆる「論理的な無限後退」をもたらし、最終的には「人間ではわからない」(たとえば宇宙の神秘のような)段階にはいっていく。そこで再び人間に戻ってくることになるから、この論理は自己言及的論理構造、つまり、自分本位、恣意的、自分の主観的な価値観に基づくものとなる。人間は人間を超えた客観・中立的な答・論理を最後まで追及することはできないのだ。解答不能の局面にたどりついたところで立ち往生する。
(ここで「もういいじゃないか」と先が気にならず、さっさとUターンするタイプの人と、究極の真理、超越的存在としての神を想定し、すべての源泉をその神におしつけて一応、矛盾のない論理構造をなんとか取り繕って納得するタイプの人にわかれる。論理の最終的な権威づけの源を神にしわ寄せするわけだ。この立場はキリスト教の成り立ちにも強い影響を与えた。)

これに対して後者の立場は、世界はあらかじめ規定されたルールで表現できない。無限定こそ世界の本質的な特徴である。ここでの論理構造はどんな仕組みになっているのか。
たとえば1人の人間が多様な人間関係を持ちつつ社会の中にいる。その社会はより大きな社会の中にある、さらにその社会により大きな社会が重なる…、こうして様々な生物や非生物からできた生存の舞台(場所・環境)がひろがっている。それぞれの社会はそれぞれのシステムで動いているが、そのシステムははじめから決まっているわけでない。大小の社会システムはおたがいに影響しあいながら、そのつど安定した秩序をめざして新しいルールを作りだしていく。

この論理形式では、人間も生物も、世界も無限定で厳密な定義が不可能になる。ルールはある期間だけ存在するが、システムの変化に応じて消えたり、生まれたり、を繰り返す。そこでは「完結的な世界」「完結的な論理体系」は幻想にすぎない。ルールを積み上げて発展するという活動は生まれにくい。むろん、この立場でも最終的にさまざまなシステムを包み込む究極の大きさをもつシステムを想定することはできる。
(この論理は「世界には実体はなく、すべては関係し合いながら相対的に存在している」という仏教の「空」の思想に共通する。また生物システムにも適うところがある。生物システムの本質はその自律性にあるが、自律性が出現するための必要条件はその状況に応じてつぎつぎ新しいルールを創り出し続けることである。そのためにはシステムの状態が規定不可能でなければならない。システムやルールがあらかじめ規定されていては自律性の出る幕がないのだ)

繰り返そう。ルールで世界を規定できるという考えに立てば、たとえば科学は本来無限定な天気の状態を「晴・曇・雨・雪」などと定義し、その上で予報の正しさを問題とする。これがわれわれの暮らしに便利なことはさておき、考え方そのものに関して言えば、人間は天気を勝手に人間流に規定・定義してつじつまのあった論理体系をつくっている。その上で天気予報が正しい予見をしたからといって、天気の状態の定義そのものの妥当性を肯定も否定もできない。

一方、世界を規定するルールはないとする考えに立てば、人間や生物、非生物など多様な要因でルールはそのつど新しく創出されるとはいうけれど、創出の原因、メカニズムについて具体的に説明することはできない。生命そのものを語りつくすことはできない。また人間そのものを世界の中で捉える論理がない。

清水さんはこの論文の末尾を次のように締めくくっている。
「どの立場に立っても人間は存在を完全に語るだけの論理を持っていない。人間と他の動物とが、それぞれ固有の世界認識法をもち、それぞれに意義があると考えると、われわれにとって正しいと思われる論理も、われわれの脳の働きのクセを反映する方法で情報を処理しているだけかもしれないのだ。われわれの認識する世界のすべてが疑いの対象となり,虚無的な見方に陥ってしまいそうだ。

私にとってただ一つ確かなことは〈人間としての生〉を受け入れて生きているということである。だが私は一人だけで生きているのでない。命あるものと交信し合い、依存し合いながら、変化する場所の中で〈生のパターン〉を与えられ、それを受け入れている。それが私の存立の根拠である。この生の意義をより深くし、より豊かにすることに目をむけていくことが、虚無の世界から抜け出る方向を示してくれると思うのである」