316 生老病呆死(53)「死」を超える対策その1  麻薬中毒志願

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 316
316 生老病呆死(53)「死」を超える対策その1  麻薬中毒志願

死を「自然」に託すイメージや思考回路は前回みたように人さまざまなのだ。
唯物論者で無宗教マルクス毛沢東
宮沢賢治は詩人で法華経の信徒だった。
:宗教を信じない吉本隆明はどうやら無宗教らしい高村光太郎の「死ねば死にきり 自然は際立っている」が大好きだそうだ。
:宗教を信じないといった高名な宗教学者岸本英夫も「死後は自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」とおもうことで最終的な決着をつけようとした。宇宙というのも当然「自然」の概念に含まれるだろう。
絶対者、超越なども自然のカテゴリーだ。
宗教家はいうまでもなく自然のなかに神仏をみる。
唯物論者も唯心論者も観念論者も、みんな最後は自然にたどり着く。自然にゆだねる。自然におんぶして死を処理しようとする。

 ボクは以前、北森嘉蔵牧師の本で、ゲーテの「自然は私をここに置いた。悪いようにはしないだろう」という言葉を知った。とても気に入り、年賀状の挨拶に使わせてもらったことがある。北森牧師はゲーテの「自然」をキリスト教の「神」にだぶらせていた。
ゲーテの「自然を通して神を知る」という言葉は知っているが、ふと本人の宗教が気になり、ネットで検索すると、すでにだれかが問い、だれかが答えてくれていた。その匿名の答え。

ゲーテ自然宗教者、あるいは汎神論者でした。 汎神論というのは、すべては神であり、神がすべてである、という考え方です。汎神論における<神>はしばしば大海にたとえられ、個物は現れては消える波にたとえられます。
汎神論的宗教のメリットは、全体との関連性を失って孤立した個物に全体との関連性を与えることでしょう。他方、汎神論的宗教のデメリットは、個物が全体に飲み込まれてしまって、その個物の意義(存在の多様性)が見失われることです。」

なるほど、自然宗教者、という表現もあるのか。
さてボク自身はどうなのだろう。死について、そして予想屋みたいだが、自分自身はどんな死に方をすると想像しているのか。死後のイメージは?

ボクが死についていちばん納得できるのはハイデガーの考え方である。人間はつねに死ぬべき存在であると自戒しながら、いまの生を充実させる、死を地平線の彼方に眺めながら、できるだけ悔いを少なく時を刻んでいく。月並みなようだが、それしかないと思う。
とはいえ、人生を走り始めたころと、もう第四コーナーにはいってしまった者とでは受け止め方がだいぶ違う。とうとうここまで来てしまったボクは、わずかな得意と膨大な失意や悔いの残る来し方を振り返って溜息をつくばかりだ。いまは「死」を意識して「生」を考えるというよりも、前方に迫る黒い闇の妄想に圧倒され、たまに思い出したように仕方なく生の後片付けを急ぐ、そんな毎日である。

死そのものは本人のものでないからキミの人生から取り除いてよろしい、という教えはその通りだが、死の前兆段階が怖い。このブログを書き始めたころは、死とはなんぞや、という観念的なものがいちばんの恐怖だったが、先人のさまざまな説と思索で満腹になり、精神面は食傷状態だ。貧しいボクのオリジナルなど埋没してしまった。あとで掘り起こすとして、いま死についていちばん怖いのは死に際の肉体的な苦痛である。吉本隆明は「死の直前に苦悶の様相を見せるが、医学的にはもう本人は意識がない、まわりの者が苦しそうに感じるだけだ」とさかんに書いている。それはありがたい。しかし、それより前、つまり意識がなくなるまでの時間帯だってある、そのときの痛みはどうしてくれるのだ、といいたいのだ。

精神的、観念的な恐怖や悲しみ、孤独はなんとかがまんできるように思えてきた。だが、肉体的、具体的な苦痛はつらいだろうな。先日、簡単な手術をしたとき、気が付いたら導尿管をはめられ、ベッドに縛り付けられていた。たった一日だったし、それほど痛みはなかったのに、おおげさにいえば、じたばたし、自由にならぬ身が狂おしかった。これに痛みが伴って、それが死ぬ直前、つまり意識がなくなるまで続くと思えば、たまらない。死んだ方がましだ。人生から「死」を除いても、この状態――死より前、さらに意識がなくなるより前の段階、がもっともつらいと感じた。ポックリ寺に願をかける老人が多いのもよくわかる。

この苦痛に対してボクの唯一の対策は、麻薬患者になることである。ああまでして麻薬のとりこになる人がいまもむかしも絶えない。それがふしぎで、若いころから一度は試したいと願っている。中学生のころ、ヒロポンというのがはやり、不良仲間と試したが、期間が短かったせいか、あいにく中毒にはならなかった。

やがて、そのときが到来したら、ボクは晴れて麻薬を試せるのだ。麻薬患者の愉悦を味わいつつ、旅立とう。それが老いたボクに残された数少ない楽しみである。妻にも、そのようにお医者さんに頼むように、と遺言している。どんどん麻薬を打ちまくってくれと。中毒になっても、だれにも、社会にも、迷惑をかける心配はない。これがボクの実践的な死を超える対策の一つである。(つづく)