158 「障害者神学」と、動物・生きものたちへの思い


   ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 158

158 「障害者神学」と、動物・生きものたちへの思い

この世の支配構造は神―→人間―→自然(動物―→植物―→無生物)のタテ社会、というのが聖書のご託宣である。だから当然、人間は動物たちをツールとして遠慮会釈なく殺して食っていいし、動物も1階級下の植物を食う権利をもっているというわけだ。この創世記・天地創造の精神はいまもキリスト教の基本形となっている。

ところで神と人間はAグループに属する特権階級なのだが、同じ人間でも、障害をもつ者は差別され、神の前に出ることはできなかった、という意外な事実を東京神学大学学長もつとめた熊澤義宣牧師が著書「キリスト教死生学論集」で紹介している。

創世記と同じ旧約聖書レビ記からーー。
『主はおっしゃった。障害のある者は代々にわたって神に食物をささげる務めをしてはならない。目や足の不自由な者、鼻に欠陥がある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者などは、神に食物をささげる務めをしてはならない。垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。』

この差別のルールは、食べられる側の動物にもあてはまった。
『主は仰せになった。ささげものは、主に受け入れられるように傷のない牛、羊、山羊の雄を取る。傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられない。略。どのような傷があってもいけない。目がつぶれたり、足が折れたり、傷ついたりしているもの、こぶのあるもの……』

神はご自分の天地創造におけるすべてのわざを、とりわけ人間の創造を「極めて良し」と満足されたと聖書には記されている。その神が、同じ聖書で同じ人間なのに障害者を汚れたもの、不完全なもの、とわけ隔てしている。
熊澤牧師によると、古代ユダヤ社会では因果応報の思想があり、障害が誰かの罪の結果だと考えられたからだそうだ。

しかし、イエスのえらいところはこれを「(障害者になったのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書・生まれつきの盲人)とひっくり返してしまう。障害者は汚いものでなく、逆に神の栄光の現われなのであった。
そのことは、のちにイエス自身が十字架上で傷を負い、障害者になり、いわば神の前に欠陥のある罪人が救いの恵みに与り、神の栄光を証明するのだ。

 深く爽やかなどんでん返しの場面である。
 こうしてキリスト教の「障害者神学」が誕生していく。 
 近年は障害者の代理苦難論が出始めている。アダムとイブの裏切りによる苦難はすべての人間が負わなくてはならないはずなのに、そうでないのは障害者がわれわれに代わって代理的に担ってくれているからだ。それを思えば、健常者は障害者に感謝の思いを禁じえないに違いないと。

この考え方は十字架の犠牲になりながら神と人間を結んでくれたイエスへの思いにどこかつながる。熊澤牧師は「障害者の存在を通してわたしの罪の刑罰としての苦難を、わたしに代わって担ってくれるキリストの十字架を仰ぐときに、障害者の存在を通し神の栄光を仰ぐことが許されよう」と表現している。

ボクはふと夢想するのだ。
エスのこの偉大な発想の転換が、たとえば食用動物たちにも適用されないだろうか。前回の北森嘉蔵牧師が舌つづみを打ちながら、すき焼きや刺身を頬張る陰で、美味な肉体を神から与えられたばかりに、牛たちは人間が存在する限り、永遠に殺され食われ続けねばならない。

あるいは大正末期の童謡詩人、金子みすゞがうたったように、「海のお魚はかわいそう。いたずら1つしないのに、こうして私に食べられる」(本ブログ18回参照)

ボクたち人間が生きるために、カレらは永遠の受難・苦難・悲惨を背負っているのだ。
人間の食料にはならないが、たとえば同じ犬猫でもペットでないほうに生まれてきたノラたち。
あくまで比喩としてだが、ボクはときどき障害者とノラたちをだぶらせて考えることがある。

神様からたまたまノラとしての命をもらってしまったために。
ある日気がついたらこの世に放り出されていたために。
自分では預かり知らない生を神様にくっつけられたために。
ノラたちは今夜も一切れの食料を求めて、人間たちのいじめにあいながら命がけで走り回っている。

野生動物も、もろもろの生きものたちもみんな似たような宿命にさらされている。源をさかのぼれば、人間と同じ命を分かち合う存在たち。神から創造されたばかりに、ともかくもその生を消費してしまうまでは生き続けねばならないのだ。
神の栄光よ、カレらにもあらわれよ!とボクは叫びたい。