248 宗教を科学する(34)何がマザーテレサを動かしているのか?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 248
248 宗教を科学する(34)何がマザーテレサを動かしているのか?

施設から実家に戻って10カ月後、川口さんは洗礼を受ける。これからの日記には神に出会うまでの道筋が綴られている。

その転機となったのはキリスト教の修道女マザーテレサだ。テレビで話したマザーテレサの言葉がよほど川口さんの心をとらえたのか、長々と書き写している。
〈人間にとって本当の貧しさは社会に見捨てられ、自分は誰からも必要とされないと感じることです。心が寂しい人はあなたの家庭の中にいるかもしれません。貧しい人を見つけて下さい。見つけることは知ることであり、知ることは愛することです。そして貧しい人のために何かをすることが、神を愛することなのです。でもその愛は余っている富の中から分かち与えるものでなく、自分が使いたいものの中から辛抱して差し出すような、あなた自身が痛みを感じる愛であってほしい…。〉
――川口さんは「感激した。生きることは簡単だ。いかに生きたかが問題だ。今を悔いのないものに」と添え書きをしている。

その20日後の日記。
「私は無神論者だった。神仏を拝むことができなかった。ところが最近、宗教を支えに社会奉仕をしている人たちを見、知ることにより私の心に変化が起きた。発病以来、いろいろな宗教から勧誘があった。同情を装い、半ば強制的に、あるいは強迫めいて、人の弱みに付け込んでくる新興宗教団体。そこには人の痛みを理解し、立ち直らせようとする思いやりが感じられない。教義も分からず狂信的に介入してくる」
●川口さんはある時期、日蓮宗の道場で治療を受け、お経に取り組み、滝に打たれ、感謝の念に満たされたことはあるが、病いが悪化するにつれ、遠ざかっていった。
マザーテレサを知って以来、川口さんは心底からキリスト教について知りたい、学びたいと思い始めたという。貧しい人、身体の不自由な人たちのために、具体的に黙々と奉仕活動を続けている、それは川口さんの知る限り、マザーテレサのようなキリスト教信者たちであった。

「何がこの人たちを動かしているのか。自分は何も出来ないが、この人たちの中に加わり、何かを学び、教えてもらいたい。一緒の仲間であることに生きがいを味わい、痛みを分かち合いたい」
●自分のためにではなく、人のために、それも貧しい人、病む人のために、豊かな財布からでなく、自分が使いたいのをがまんして、痛みをともないながら、お金を差し出す、愛をおくる。なぜそんなことをするのか、川口さんは戸惑ったにちがいない。無神論者の川口さんは多分に自我の人、自己中心の人でもあった。神という存在を通じて、人と人が利害計算もなく繋がりあえる、輪になることができる…おぼろげにそんなことが意識されてきたに違いない。この時期から川口さんの筆遣いには以前の憤怒やいらだちや、恨みつらみ、『なぜ自分だけが苦しまねばならないのか』という懊悩が消え、見違えるほど柔らかく穏やかになった。

「発病して8年。ずっと怒り、悲しみ、嘆き、恨み、死を考えていた。そのころが懐かしい。あきらめを繰り返しながら、自分の感情を抑え、ささやかなことでも感謝するように努めてきた。いままでの過程に悔いはない。これからも不治の病と仲良く同居していこう。私たちには間に合わないだろうが、次の時代には必ず原因が分かり、治療方法も確立されるだろう。」
●自分の不治の病は治らなくても、やがて次の代には治療方法が確立される。自分のためだけでなく、他人のために、という視点の誕生だ。

「老いた母にあまり苦労をかけないように、訓練もあれこれ器具を買わず、できる範囲でやろう。読書や俳句もやりたい。タイプに託して心に思うことをいろいろ々記し喜びとしたい。読書や俳句もしたい。キリストの教えを学び、その上に立って障害者、病人の問題を考えていきたい。先のことにこだわらず、一日を見つめて生きていくことにする。」
●自分にはもう障害者とか病人とかいう差異は関係ない。自分の時代には治療方法もみつからないまま自分は消えていくだろう。しかし、キリスト教を学び、そこから他者のための障害者、病人の問題を考えたいというのだ。

「いま、聖書に夢中だ。何がこうさせるのか。いろいろなものに感化された結果だが、それだけ死を身近に感じているのかもしれない。生かされていることに喜びと感謝を持ち、豊かな心で日々を送りたい。どこまで教えに近づき、実行できるか。朝晩の祈りに新鮮なものを感じ、信ずることの尊さも口には言えぬ実感として伝わってくる。一歩一歩神に近づき、救いと願いと恵みがかなえられる日を待ち望む」
●唐突にみえるかもしれないが、信仰の始まりはだいたいこんなもののようだ。急展開は信仰の多くのケースに共通している。うわべには見えなくても、本人も意識しなくても、苦悩と絶望に揉まれているうちに内面は神を受け入れる準備がすっかり整っていたにちがいない。無神論の皮一枚が破れたとき、一気に神が溢れ出てくるのだ。(つづく)