249 宗教を科学する(35) 最後に残った話し相手は神だった

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 249
249 宗教を科学する(35) 最後に残った話し相手は神だった

聖書に読みふけり、神に近づこうとする川口さんだが、むろんその歩みは一歩ずつゆっくりで、ときにはまわりの景色も気になる。

「自分だけのことを思い、つつましく暮らせば気も楽なのに、なぜ人のことにとらわれるのだろう。ひとりでいることが恐ろしいのか、愛に飢えている哀れな男なのか。
目と耳が不自由な二重苦の障害者が針きゅうを通して社会参加を果たしているのをテレビで見る。彼女を取り巻く福祉、信仰、友人といずれもすばらしくうらやましい。彼女の人柄が立派だから、人が集まり輪が広がるのだ。
私ももう少し自我を捨て、触れ合いを大切にしていかねばならない。以前のように背伸びせず、痛みを分かちあえる人のみにしぼって関係を復活させよう。」
●239回に紹介した寝たきり歌人は、障害を持つ少年に野の花を例示し「自分と人を比べないように。神様に顔を向けるのだよ」と助言したが、これはなかなかむつかしい。人はやっぱりまわりの人と自分をつい比較してしまいがちだ。障害者の川口さんは、見えない、聴こえない、二つの障害をもちながら立派に社会参加している女性をテレビで知ってうらやましく思う。彼女の人柄がいいから多くの人が集まってくるのだ。
そして川口さんは改めて決意するのだ。自我を減らし、背伸びをしないようにする。他者との触れ合いを大切にし、痛みを分かち合えるように、と。

人の輪が大切だ。社会とのコミュニケーションをはかりたい。しかし、川口さんはしゃべるのがむつかしい。会話はむりだ。握力がないので受話器は持てないし、文字を書いてもカナクギ流で他人には読んでもらえそうにない。
川口さんが最後にたどり着いた手段はタイプライターだった。
指では的確に押す力がない。もどかしいし、疲れる。ふと思いついて鉛筆を指にはさんで打ってみた。案外うまくいった。楽だ。しかし、症状は徐々に進む。半年後には指で押すのと同じような状態になった。うまくいかない。
最終的に思いついたのは火箸だ。火箸を逆に持ち、丸まった頭の部分でタイプを打つ。先端の重みと、すべりのよさがマッチし、なかなか好都合だ。これまでになくうまくいった。タイプライターを武器に川口さんは人との触れ合いを求めて始動する。
自治体の福祉課や身障者団体に連絡を取り、自分と同じような在宅の難病患者や身障者のアドレスを教えてもらい、せっせとタイプを打ち続けた。一人ずつに便りを出して交流を求めた。それなりに大変な労力だったが、返事は少なかった。無視されたり、拒絶されたりした。
そのかわり、タイプはむしろ川口さん自身のために役立った。自分がひとり思うこと、神に打ち明けたいこと、をとりとめもなく綴るうちに、意外な充実と喜びが返ってきたのである。川口さんはタイプに生きがいをゆだねる日々になった。

ひとりぽっちの川口さんだが、心の中でいつも自分の向かい側に座っている存在を意識するようになる。それは神だ。日記の言葉を拾っていこう。
「言葉をしゃべるのがつらく、相手もますます聴きづらいようだ。意思を伝えられなくなる恐ろしさ、悲しさは筆舌につくせない。これからは神と対話するしか道は残されていない。」
●川口さんがしゃべる相手は家族しかいない。その家族にも意思が伝わらなくなり始めている。対話する相手はもはや神しかいない。みんなに見捨てられても神だけはわかってくれるのだ。そのことに川口さんは気づいている。何気なくいうけれど、これは何という大きな発見だろう! ありがたいことだろう。

「障害者ゆえに、キリストを知ったがゆえに、知り得た数々のできごとはこの上ない喜び、幸せだ。」
●そうか、わが偉大な味方である神を発見できたのも、キリスト教のおかげだった! と川口さんは改めて感謝したことだろう。ところで神や仏や…超越者にアクセスするルートは宗教しかないのかしらん。ふとボクは立ち止まるが、このことはいずれまた。

「キリストの門をたたき、導かれてから物事に対する見方、考え方が変わって来たのは驚くべきことだ。」
無神論者の川口さんがいよいよ本物のクリスチャンに深まっていく一里塚であろう。

 神との問答で川口さんはちょっといらだつ。全身マヒに近づきつつある自分にいったいなにができるというのだろうか? 神の御心にかなうことをしたいと思っても、この身体では具体的に何もできないじゃないか。
「(廃人同様の)私は何もできない。何ができるというのか。いや高ぶってはいけない。生かされているということは、まだどこかに何かが残され、与えられているはずだ。イエスは〈…自分を愛するように隣人を愛しなさい〉といわれるが、私にできるものは…私には祈ることができる。主に話すことができる。願うことができる。」
●お見事。全身マヒになってもやれること、それは自分のために、神のために、そして他人のために「祈る」ことだ。正解ピンポンである。祈る、という行為はフランクルアウシュビッツ強制収容所で分類した三つの価値のうち、〈態度価値〉に該当するのだろう。(つづく)