153 生老病呆死(26)今度も書けなかった「イエスのふしぎ」

       ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 153

153 生老病呆死(26)今度も書けなかった「イエスのふしぎ」

 遠藤周作の3部作の最後は「キリストの誕生」だ。
あとがきによれば、前作「イエスの生涯」を書き終えたとたんに、「現実においては無力で、無残な死に方をしたイエスが死後、根本的な価値転換によって、弟子たちや彼を信じる者たちに強い信仰を吹き込んだ過程を考えたかった」という。宗教色のひときわ濃厚な本書はイエスの死後物語といってよく、「イエスの生涯」の五年後に発表された。

『キリストの誕生』

遠藤はイエスの生涯とその死後を追跡して、無力な彼がなぜ死後に強い影響力をもつようになったのか、その謎に挑んだ。しかし、本書の末尾は「このイエスのふしぎさは、どれほど我々が合理的に解釈しようとしても解決できぬ神秘さを持っている。その神秘はますます深まり今度も書き得なかった」と結んでいる。謎は解明されず、謎のまま残ったのだが、ともかくその顛末を短く紹介しよう。

エスの死後、ぐうたらで、弱虫で、卑怯な弟子たちはよみがえった。いったん逃走した迫害と拷問の渦中に引き返し、イエスの福音を説いて回った。増え始めるキリスト教徒。弾圧が始まった。その結果、原始キリスト教団のリーダーたちは相次いで無残な死を遂げる。
ポーロはなぶり者にされ、獣の皮をかぶされ、犬に食い殺された、一説では体に油を塗られ、日没後、灯火のかわりに燃やされた。
総督と取引をして師イエスの命と引き換えに弟子たちの安全を確保したペトロも師と同じ十字架刑を受けて後を追った。
ヤコブは城壁から突き落されたが死なず、「主よ、彼らを許してください」とかつてのイエスのように祈り、棒で頭をうたれて絶命した。

遠藤はこう書く。
「原始キリスト教団は30年前にイエスが十字架で虐殺された時、その弟子たちが受けたものと同じ衝撃を感じ同じ疑問をふたたび問わねばならなかったのである。その疑問とは〈あの人はなぜ、かくも、むごたらしい死を神から与えられたのか〉という疑問だった。あのように神のために生きた人、愛だけで生きた人がみじめな死を遂げねばならなかった不可解な理由――その謎を解くことは生き残った弟子たちの生涯の宿題になったが、今、その宿題はポーロを知っている者、ペトロを知っている者、ヤコブを知っている者に同じ形で突きつけられたのである」

一方、ローマの弾圧的な政策にイスラエル市民は保守派と過激派に分裂して戦い、過激派が勝った。ローマ軍の介入。エルサレムは灰になった。原始キリスト教団の動きも現存する資料から忽然と消えている。確かなのはこの衰退によってキリスト教は異邦人が中心となる。そしてユダヤ国内の民族宗教から世界宗教の可能性をもつようになっていくのだ。

キリスト教徒にとって3度目の受難だった。1度めはイエスの虐殺。2度めはポーロ、ペトロなどの殉教、そしていま、ユダヤ戦争によるエルサレムの根こそぎの破壊。
「神はなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再臨しないのか」。解き難い2つの謎に疲れ果て脱落者もむろん出た。しかし、逆に信仰のエネルギーを得てキリスト教は次の世代に引き継がれていった。

その理由を遠藤は「不合理ゆえに我信ずという信仰の形式が原始キリスト教団を組織的衰弱から防ぎ、その活力を与えたのだと私は考える」と書いている。

〈不合理ゆえに我信ず〉という言葉はちょいちょい目にするが、出典は知らなかった。調べてみると、2世紀のキリスト教神学者のテルトゥリアヌスという人が、「キリスト教信仰は普通の理性で解釈すべきものでない、と信仰の理性的、哲学的解釈を退けて」この言葉を用いたらしい。彼はキリスト教思想と哲学の関係を最初に論じた人として知られているそうだ。

本書の原始キリスト教団の行動追跡はほぼここで終わる。
このあと、遠藤はイエス・キリストにまつわる謎や疑問を集大成している。筆頭は、遠藤がこれまでもしばしば繰り返している、弱虫の弟子たちがなぜ、イエスの処刑以後、あんなに強く信仰に生き続けられたのか。

ふたつめの謎は、処刑された男(イエス)が10年後には神格化され始めている。それも釈迦のような「理想の人間」や他の宗教の教祖のような「理想の信仰者」としてではなく、「信仰の対象」そのものになってしまったのだ。これは世界の宗教の中で他に例を見ない。古代ユダヤには預言者、ラビはたくさん出現した。イエスはそのうちの一人にすぎない。なのに、イエスだけがなぜ神格化され、信仰の対象にもなったのか。それも唯一の神(ヤハゥエ)以外の信仰を厳しく禁じたユダヤにおいてである。

まだふしぎなことがある。
彼にまつわる伝説・神話は彼の死後10年たらずの間にできた。いかなる無神論者も反キリスト教者もイエスの復活物語、奇跡物語が長い歳月を経て作られたのではなく、彼の死後、ほとんどただちに人々の間に語られたという事実を否定できない。イエスを現実に見知っていた人たちがまだ多く残っていた時、イエスを信仰の対象とするこれらの神話が信じられていたことになる。神話は普通、長い長い歳月をかけて醸成されるものなのに。

さらにイエス・キリストは弟子たちの願い、要望にこたえていない。受難は続いているのに、神は沈黙し、キリストは再臨しないままだ。それなのに、なお彼らは絶望しなかったとすれば、驚くべき信仰ではないか。イエスは何か決定的なXを弟子や彼に接した民衆に与えているのだ。そのXは文字で書いた福音書からは我々は知ることができない。それはひとつの強烈な人格が他人に与える衝撃であり、聖なるものは言葉では完全に表現できないからだ、と遠藤は筆をおいている。(次回に続く)