152 生老病呆死(25)その人には見るべき姿も、威厳も美しさもな
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 152
152 生老病呆死(25)その人には見るべき姿も、威厳も美しさもなく
遠藤周作のキリスト教文学作品の2作目は『イエスの生涯』である。
『イエスの生涯』
洗者ヨハネの逮捕・死で、民衆の期待はその後継者イエスに集まった。民衆がイエスに求めたのはふたつある。ひとつは支配者ローマを武力で打ち倒す。ふたつは病気を治す、萎えた足を立てる、盲人の目を開く、など「奇跡」をおこすことだ。だが、結果はこのふたつともイエスはできなかった。民衆にとってイエスは「期待外れの預言者」であり、「結局はなにもできぬ男」にすぎなかった。
長い間、征服者に虐げられてきたユダヤ人の悲願も苦悩もイエスはよくわかっていた。しかし、イエスの解決方法は武力ではなかった。地上の覇権でもなかった。「剣をとる者は剣で滅びる」「わたしの国はこの世のものでない」
武力と覇権の代わりにイエスが教え、願ったのは愛の神、神の愛の力だった。
イエスは言った。
「神は善人にも悪人にも陽を照らし、義者にも不義者にも、雨を降らし給う」
「汝らの敵を愛し、汝らを憎む人を恵み、汝らを迫害する人のために祈れ」
ふたつめについて遠藤はこう書いている。
「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。湖畔の村々で彼は人々に見捨てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜、じっと握っておられたが、奇跡などはできなかった。そのためにやがて群衆は彼を『無力な男』と呼び、湖畔から去ることを要求した。だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼らを愛する者がいないことだった。彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望がいつもどす黒く巣くっていた。必要なのは『愛』」であって病気を治す『奇跡』ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみを分かち合い、共に涙を流してくれる母のような同伴者を必要としている。
その神の愛を証するためにイエスは不幸な人に出会うたびに、神の国では次のようになることを願われた。
「幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼らのものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼らは慰めらるべければなり」
だが、この世で人々に神の愛をどのように証明すればいいのか。イエスはそれを問い続けた。
遠藤は随所にイエスの苦悩を書いている。
「愛の神、神の愛――それを語るのはやさしい。しかし、それを現実に証することはもっとも困難なことである。なぜなら『愛』は多くの場合、現実には無力だからだ。現実には直接に役に立たぬからだ。現実は神の不在か、神の沈黙か、神の怒りを暗示するだけで、そのどこに『愛』がかくれているのか、我々を途方に暮れさせるだけだからだ。イエスは民衆が、結局は現実に役に立つものだけを求めるのをこの半年の間、身にしみて感じねばならなかった。」
「福音書に記述されたおびただしいイエスの奇跡物語は私たちに彼が奇跡を本当に行ったか、否かという通俗的な疑問よりも、群衆が求めるものが奇跡だけだったという悲しい事実を思い起させるのである。そしてその背後に現実的な奇跡しか要求しない群衆のなかでじっとうつむいているイエスの姿がうかんでくるのだ」
さらにイエスの神は師ヨハネの神とは違った。ヨハネの神はおのれに従わぬ町を滅ぼし、民の不正に激しく怒り、人間たちの裏切りを容赦なく罰する厳父のような神であった。イエスの愛の神はやさしい母のイメージだった。
「だが、どのようにこの愛の神を人々に証することができるか。人間の現実はたしかに愛の神よりも罰する神を考えるほうにむいている。人間の現実と愛の神との矛盾した関係をどのように肯定すればよいのか。苦しむ者、病める者、泣く者は自分たちが神の愛から遠いとしか思っていないし、人々も彼らを見て、そこに神の眼に見えぬ罰と怒りしか感じていない。それはイエスの心にあるあの神の国のイメージとあまりに隔たっている。」
イエスは民衆に蔑まれ、弟子に裏切られて、殺された。しかし、最後まで彼は愛の神を信じ、弟子たちの救いを神に願って十字架で果てた。
旧約聖書は預言者イザヤをうたう。
〈その人には見るべき姿も、威厳も、慕うべき美しさもなかった。侮られ、捨てられた。その人は哀しみの人だった。病を知っていた。忌み嫌われるもののように蔑まれた。誰も彼を尊ばなかった。まことその人は我々の病を負い、我々の哀しみを担った……〉
弟子たちはイエスの悲惨な死と、イザヤ書の(みじめな救い主)のイメージを初めてだぶらせた。それまで彼らにとっての救い主は、力あり、威厳に満ち、異邦人に奪われたイスラエルの土地と誇りを取り戻してくれる栄光のイメージだったのだ。
遠藤は書く。
「無力な、何もできなかったイエスの悲惨な死によってーーそれが悲惨な死であるがゆえにその死のまぎわの愛の叫びはーー弟子たちに根本的な価値転換を促したのだ。」
「イエスの生涯はそれだけだった。それは白い紙の上に書かれたたった一文字のように簡単で明瞭だった。簡単で明瞭すぎたから、誰にもわからず、誰にもできなかったのだ」(次回に続く)