151 生老病呆死(24)いちばん辛い愛の行為をして司祭は転んだ 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 151

151 生老病呆死(24)いちばん辛い愛の行為をして司祭は転んだ 

 『沈黙』『イエスの生涯』『キリストの誕生』は遠藤周作キリスト教文学3部作である。国内外で高く評価され、いずれも著名な賞を受けている。ただし、当のキリスト教関係筋では忌避する向きも多いらしく、国内でもこれらの本を禁書扱いしている神父さんもいるそうだ。そのことはのちに触れるとして、3部作の中から印象深い個所を紹介しょう。
 
『沈黙』
 
 長崎でポルトガル人の司祭ロドリゴは棄教を迫られ、拷問を受けようとしている。そのとき、彼の脳裏に浮かんだのは穴で逆さに吊られたり、海中に縛られたりした日本の信徒たちが「参ろうや、参ろうや、パライソ寺(注・潜伏キリシタン用語で「天国」の意味)に参ろうや、パライソ寺は遠いけど」と歌いながら死んでいったという光景だ。その光景にだぶらせて彼はイエスの最後のときを思うのだ。

 「あの人(注・キリストのこと)もまた、今、自分が震えているこの恐怖を噛みしめたのだという事実だけが、今の彼にはかけがえのない支えだった。自分だけではないという嬉しさ。自分が信徒たちとつながり、さらに十字架上のあの人と結びあっているという悦びが突然、神父の胸を激しく疼かせた。あの人の顔はこの時、かつてないほどいきいきとしたイメージを伴って彼に迫ってきた。苦しんでいるキリスト、耐えているキリスト。その顔に自分の顔はまさに近づいていくことを彼は心から祈った。」

 司祭は最後まで棄教を拒み、拷問の場所につれてこられる。汚物の詰まった真っ暗な狭い囲いだ。ここで逆さ吊りされ、口と鼻から血を出しながら死んでいく段取りになっている。そのとき、いびきが聞こえてきた。牢番が酒を飲んで眠りこけているのだろうか?
そのとき、かつての先輩でここで拷問を受けて棄教し、いまは長崎の奉行所の手伝いをしている元司祭がやってきた。棄教したということで、本国の教会から追われ、現職のロドリゴ司祭も彼を憎み、軽蔑している。以下少し長いが、要約してみる。

〈元司祭は「あれはいびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちのうめき声だ。」といった。
ロドリゴははっとする。いまもだれかが鼻と口から血を流しながらうめいていた。自分はあの声を滑稽だと思って声をだして笑いさえした。自分だけこの夜あの人と同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた。だが自分よりももっとあの人のために苦痛を受けている者がすぐそばにいたのである。それでもお前は司祭か。他人の苦しみを引き受ける司祭か。主よ。なぜこの瞬間まであなたは私をからかわれるのですかと彼は叫びたかった。
 元司祭はいう。「私は信徒たちのあのうめき声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは穴に吊られたからでない。三日間、逆さにされていてもわしは一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ。わしが転んだのはな、拷問の後でここに入れられ、あの声を聞いたからだ。あのうめき声に神は何ひとつなさらなかったからだ。必死に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
 「黙りなさい」
 「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちはいま、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。なぜ彼らがあそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないかーー。わしがここで過ごした夜も5人が穴吊りされ、うめいていた。役人はいった。お前が転べばあの者たちはすぐに助けると。わしはいった。あの人たちはなぜ転ばぬかと。役人は笑って答えた。彼らは何度も転ぶといった。だが、お前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにいかぬと。」
 「あなたは祈るべきだったのに」とロドリゴは泣くような声でいった。
 「祈ったとも。だが、百姓たちの苦痛を和らげてくれなかった」
 「あの人たちは地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを得るでしょう」
 「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉でごまかしてはならない。お前は彼らより自分が大事なのだ。お前が転ぶといえば彼らは苦しみから救われる。なのにお前が転ばぬのは彼らのために教会を裏切るのが恐ろしいからだ。わしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ」。そして「もし、ここにキリストがいられたら、彼らのために転んだだろう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても……」
 
ロドリゴ司祭は「私を苦しめないでくれ。遠くに行ってくれ」と大声で泣いた。「さあ、今までだれもしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」と元司祭はロドリゴの肩に手をかけた。司祭は立ち上がりよろよろと歩き出した。

 ロドリゴの足元の踏絵の顔はあまりに多くの人に踏まれて磨滅し、痩せこけ疲れ果てていた。その顔はこう言っていた。「踏むがいい。お前のつらさを私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。踏むがいい」

 遠藤のキリスト像は母性的で、仏教に近いといわれるのは上記の末尾あたりを指すのであろう。そこに反発するキリスト教関係者も多く、冒頭の遠藤の著書を忌避する一番の理由も「キリストが背教をすすめるはずがない」という点にあるそうだ。(次回に続く)