307 生老病呆死(44)いざ、150億年の虚空の旅へ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 307
307 生老病呆死(44)いざ、150億年の虚空の旅へ

 前回、岸本先生の「死後の世界はない。死後に<無>のイメージも持ち込まない。死は日常の普通の別れと同じ。あとはそれっきり」という死生観を引用した。これに対しボクの先輩Hさんはつぎのような意見を寄せてくれた。

岸本先生が導かれた「死は別れのとき」という結論にまったく同感です。死は生きているあいだに起きる一つの事件、しかも最後の事件であると思います。岸本先生の考えはよくわかるのですが、わからないところがひとつ。死後は「自分は宇宙の霊にかえって永遠の休息にはいる」といわれる。このくだりはついていけません。霊を出してくると「別れ」ではなくなってしまう気がします。偶然に人間を産み落とさせて、喜びや悲しみをちょっぴり味あわせて消す。これが自然なのではないでしょうか。お釈迦さんはその味わい方を教えているのではという気がします。

 Hさんは理系の出身で、万事に合理的、科学的な考え方の持ち主だ。ふだん、宗教とか神とかを話題にすると、へへへ、と鼻で笑うような印象がある。しかしこのコメントは筋が通っている、それだけでなく束の間の人間存在の悲哀が漂い,ボクなどは逆に宗教的なものを感じてしまう。Hさんは宗教学の岸本先生と「死および死後」の考え方ではほぼ一致したが、<霊>のくだりはおかしいという。せっかく合理的、知的に突き放したはずの「死後」が、これではまたあいまいな正体不明の<もやもやムード>に逆戻りといいたいのだろう。
 
岸本先生はいわば言葉の綾として、霊を持ち出したのかもしれない。しかし、ボクもこのくだりにHさんとは違う立場で一言いいたい。
「自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」という岸本先生の考え方は、本ブログ279回以降の「無限シリーズ」でさんざん引用してきた清沢満之をはじめ、多くの仏教者たちの説く「超越的存在・無限・永遠・絶対者」のもとへ、とどこが違うのだろうか。共通するイメージでないのか。

来世はあるのか、と問われて釈迦は「それはだれもわからない」と答えたのは広く知られている。キリスト教の天国・復活にしろ、仏教の極楽・地獄にしろ、あくまで寓意としてのイメージだ。知性が発達していない時代の、大衆へのやさしい語りかけの造語であったのだ。

最近、ボクの気に入っている「死後のイメージ」がある。
東大医学部卒の医師で日本ホリスティック医学協会会長などを務める帯津良一さんの『虚空への旅人』説である。帯津さんによると、「宇宙がビッグバンを起こし、生命が誕生して150億年。われわれはその片道150億年をかけてこの地球に降り立った。死ぬと今度はまた150億年かけて虚空を一人で帰っていく。死はふるさとへの帰り道の出発点だ」というのである。

生命の誕生や遺伝子の仕組みからすると、往路に関してはこの説は「科学的」だ。なぜ生命が誕生したのか、その理由そのものには諸説があっても、宇宙塵に含まれた有機物が長い時間をかけてある日、生命を獲得した。そして地球上の数千万種といわれる全生物は40億年の旅路をさかのぼると同じ親(祖先)にたどりつく。人間と大腸菌とトウモロコシは同じDNAだという。これらは現代生物学で証明されている。
(本ブログ171回の京大名誉教授岸根卓郎さん、東大客員教授などを務めた生命誌研究者の中村桂子さんらの話を参照してください。)
 
ビッグバンから現代にいたるわれわれの往路は科学的だが、死を折り返し点に再スタートするふるさと(ビッグバン)への帰路は帯津さんのロマンで設定される。

だいたいこんな趣旨だ。
死後の世界があるのかどうか、確実に答えられる人はひとりもいない。一人一人が感じる、確信する以外にない。私はあると思っている。死はこっちから向こうの世界へ行くだけだ。未知の世界へ行く期待と不安は宇宙船に乗り込む前の乗組員の気持に似ている。家族や親しい人と別れる淋しさ、つらさもあるだろう。
でも私たちは死を契機にUターンせねばならない。私たちの日々は地球を旅立つ日に備えて、飛行士として鍛えられているようなものだ。打ち上げの準備をしている。打ち上げには生命のエネルギーを高め、爆発させねばならない。この世に生きているのは、そのための修行です。150億年の距離を飛ぶ燃料が満タンになったら、修行は終わり、晴れて虚空のふるさとへ旅立つことができる。こちら側からみると、長生きしている人をうらやましがるが、あちら側からみると、「ご不幸に。まだ旅立てないでいる。何をぐずぐずしているのだろう」ということになるかもしれない。死は往復300億年の虚空の旅のひとつの通過点にすぎない…。

宇宙飛行船の譬えはおもしろい。今のところ、ボクはこのストーリーで死を納得させようと思っている。天国地獄浄土というのでなく、虚空というアドレスもうれしい。虚空は無限であり、絶対であり、永遠だ。仏教者・清沢満之風にいえば、有限のボクは同時にこれら無限の一部を構成し、死によって無限のふるさとに溶け込んでいくのだ。それはまさしく岸本先生の「宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」と同じ結論になる。ボクは岸本先生ご自身が誇られているような「強靭な知性」とは無縁な人間だが、死後の世界は期せずして同じところに落ち着くらしい。(つづく)

306 生老病呆死(43)「無」をイメージできない、だから死がいっそ

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306 生老病呆死(43)「無」をイメージできない、だから死がいっそう怖い

 宗教は天国、地獄、極楽浄土など死後の世界を説いている。しかし東大で宗教学を教える岸本英夫は死を前に「死後の世界」が存在する証拠がどうしてもみつけられない。死後の世界を信じることができればこんな楽なことはないとわかっていながら信じられない。死後の世界はある、ない、と迷い続け、自身が分裂するのはなによりつらい。だから、ないほうに賭けたのである。それできれいさっぱりな心境になったかというと、そうはならなかった。
 
その次に岸本教授を襲ったのは「無」の恐怖である。死後の世界がないとすれば、死というものは無に近いものになる。
 「人間には無ということは考えられない。人間が実際に経験して知っているのは自分が生きて生活しているということだけだ。その意識経験がゼロになるという状態は概念的には考えても実感的には考えられないことだ。その考えられないことを死と結び付けて無理に考えようとするから、恐ろしいことになる」と岸本は書いている。
 たしかに、ひとくちに「無」というが、具体的にイメージするとなると、わからなくなる。無の概念は極大から極小まで文字通り無際限だ。この「無」に「死」を関連させて考えるから話はいっそうややこしくなる。死について考えるとき、無というわけのわからないものを結び付ける角度は避けることにした。
死と無を分離させる、このことに岸本は気づいたのだ。

 死のイメージについて、最晩年の賀屋興宣の述懐を石原慎太郎さんが書きとめている。賀屋は戦前の大蔵大臣を務めその有能さは定評があった。彼は見舞いにきた石原さんにこう語ったという。
 「人間には天国も地獄も、来世なんてありゃしませんよ。この年になるとその実感がはっきりとありますね。人間が死んでしまった後には何もありゃしない。その何もないところへいった人間がどうなるのか、どんなものなのかをしきりに考えてるんですがね。長あいトンネルを、前後左右、だれもいない中を一人っきりで切りなく歩いていく、そんな感じがしますね。これはどうも退屈でやりきれんものでしょうね」

 来世などないといいながら、長いトンネルを一人っきりで果てしなく歩いていく、というイメージが語られている。このイメージをなんともいえないリアリティがあると評する人もいるが、死を無の眼鏡で透かしてみると、それこそリアリティのあるものからないものまで、無数のイメージが可能になる。リアリティがあればあったで、死の正体探しに人間の恐怖や苦悩は増幅されるのだ。
「無」や「死」に、リアリティのあるドラマをくっつけることを避けるーーそれが宗教学の大家である岸本の選択だった。

では、人間が実感をもって意識し認識できるものはなにか。それは結局いままでの生活で経験したことだけだ。
日常生活で私たちはたとえば転勤や引っ越しなどでいくつもの別れを経験している。愛する人との別れ、旅先でも親しくなった人との束の間の出会いと別れがある。ボクのこどものころ、♪二度とあえない心と心♪ 、たしか淡谷のり子だったかの歌が街に流れていたのを思い出す。
フランスの「別れは小さな死」ということわざも広く知られている。親しい家族や友人との別れは、自分自身の一部を亡くすることでもあるというのだ。思えば私たちはふだん大小、いくつもの別れを経験している。「もう一生会えない」と悲しみにくれながら、それでもその別れに耐えてきている。

本物の死も、こういう日常にあふれる普通の死と思えばよいのだというのが岸本先生のたどりついた死への覚悟である。
こうした別れに耐えられるのなら、死という別れにも耐えられるのでないか。
来世はないと割り切ったうえで、「死」を「無」などという余分なイメージでふくらませず、馴染みのある、生活実感の伴う日常の経験の範囲内で想定しようというのである。「死は(日常の)別れのとき」なのである。

ただし普通の別れには次の行く手がある。行く手を考えながら別れることができる。だが、岸本先生によると、死という別れには行く手がない、その先がない。これはどう処理すればよいのだろう。
此岸にいるわれわれの持ち札はこれまで自分のやってきた人生経験だけだ。それだけで対応しなければならない。

そういうわけで、岸本先生はこう開き直る。
「自分の心を一杯にしているのは、いまいる人たちとの別れをおしむということ」。自分の生きてきた世界に後ろ髪をひかれるからこそ、最後まで気が違わないで死んでいくことができるのでないか、死とはそういう別れ方だと考えるようになったのである。
死と無を一緒に考えていた時は自分が死んで意識が亡くなれば、この世界もなくなってしまうように錯覚していた。しかし、死とはこの世に別れを告げるときと考えると、自分の死後もこの世は存在し、自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいるだけである。――「これが死に対する私の大きな転機となった」と書いている。(つづく)

305 生老病呆死(42) 来世があるなら死は怖くないのだが……

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305 生老病呆死(42) 来世があるなら死は怖くないのだが……

 「死」は私たちが日常経験する、ありきたりな普通の「別れ」なのだ、といういわば「平凡な」結論にいたるまで岸本はいろいろな模索を重ねている。その跡をざっとなぞってみよう。
 
死についてはだれもが考えるが、その立ち位置はふたつある。
 ひとつは、一般的な死の問題として考えをめぐらす。死とは何か、という観念論である。
 もうひとつは、岸本がそうであったように、自分自身が実際に死に直面し、切羽詰まった状況で死と向き合う。
この段階になると、それまでの一般的な死の観念論などは吹っ飛んでしまう。ひたすら生への原始的な欲望だけが爆発する。この状態を岸本は「生命の飢餓状態」、と呼ぶ。
 生命の飢餓状態の中で、自分を襲ってくるのは、肉体的な苦痛と、死そのものに対する恐れ、のふたつである。身体の痛みや苦しみもたしかにつらいが、それよりつらくて恐ろしいのはこの自分の意識が、なくなってしまうと想像することだという。

 こんなときもし、宗教の説くようにあの世―ー天国とか浄土があれば、どんなに楽だろう。死後の生命の存続を信じることができれば、これは死に立ち向かう上で最強の武器になり得るのだ。岸本はクリスチャンの家庭で育ち、子ども時代は信仰をもっていたが、青年になって奇跡をおこなう人格神信仰は信じられなくなった。そしてキリスト教の天国も、仏教でいう浄土も信じられない。
 岸本が健康なころ、そういうと、ある保守的な宗教家は「今は健康で死の実感がないからそんなことがいえる。実際に死に直面すると、あなたも多くの人と同じように神にすがり、来世を信じて死んでいくに違いない」と批判したという。

 のちに癌になって文字通り死の淵に立った。死後の理想世界を信じればどれだけ楽だったしれない。しかし、信じることができなかった。そのことを岸本は「私の知性がゆるさなかった」。「私は自分の知性の強靭さに誇りをもった」と強い調子でほこらしげに書いている。
 (この点についてボクは多少の異議があるが、そのことはあとでまとめて書く。)

  むろん岸本自身も死後の世界の有無については悩んだらしい。こんなことを書いている。
「死後があるかないかよりも、ほんとうにこわいのはじつは、あるかないかわからないままに、生命欲に圧倒され、無理にあると自分に言い聞かせて慰めようとする、しかしどうしても疑いが生じ、煩悶する、それが一番恐ろしく悲惨なのだ」。

これは信仰深い人でも同じことらしい。本ブログ147回にスペインのキリスト教作家ベルナノスを引用した。「信仰というものは90%の疑いと10%の希望だ」という言葉である。敬虔なクリスチャンだった作家遠藤周作はこの言葉がよほど気に入ったとみえ、あちこちで引用している。

あの世も天国も浄土も、この世の肉眼では見えない。どんなに強靭な近代的知性でもこれがほんとうだ、と<科学的に>突き止めることはできない。それが人間の宿命であり、限界なのだ。天国・浄土を信じようと信じまいと、どちらが正解かはだれも決められない、わからない。あるときは存在説に傾き、またあるときはそんなもの存在する証拠がどこにもない、とゼロに戻る。
その迷い、自分自身の分裂が、いちばんつらい、と岸本はいう。

これを避けるために岸本はどうしたか。
あの世は存在する、しない。どちらかひとつにきめてしまおうと覚悟したのである。ふたつあるから迷い、苦しむのだ。そしてどうせなら、証拠もないのに空安心するようなことはせず、苦しくても悪いほうにきめてしまおう、つまり、死後の世界はないというほうに賭けたのである。
あの世はあるという仮説で自分を救おうとしないで、死後はないという背水の陣を敷き、そこで耐えていく。生命飢餓感と闘っていくことにした。
 
では、どう闘うのか。
 目の前の仕事に打ち込むことで「死」を忘れよう。死を見ないようにしようとしたのである。死んだらどうなるかという恐怖をごまかすために、とにかくがむしゃらに働いた。闘病しながらの仕事ぶりはすさまじく、同僚教授から「手負いの猪」といわれるほどだった。だが、それでも死は念頭から離れず、思案は続いた。

 ある日、ふとふたつのことに気付いた。(つづく)

304 生老病呆死(41)死は「別れのとき」

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304 生老病呆死(41)死は「別れのとき」

晩酌をしながらテレビの古い時代劇やサスペンスものをみるのが最近の楽しみになっている。残り少ない人生の時間をこんなものでつぶすなんて、と思わないことはないが、しかし、こういう無駄な時間も人生を味わう、一つの部分なのだ、と自分に納得させている。そういう年齢になったのか。
先夜も古いサスペンスをみていて、ふと考えさせられるセリフに出会った。

その初老の女性は若いころ夫との間に一子をもうけていたが、夫に愛人ができ、夫と愛人のふたりからイジメを受け、幼い娘を残して家を出る。病院の掃除婦、ラーメンの出前持ちなどいくつもの職業をへて、いまは末期がんで入院している。大きくなった娘と偶然再会し、二人は名乗りあげないが、それとなくお互いがわかっている。娘は実母をなんとかホスピスにいれてやりたいと願うが、高額な資金が必要だ。そんな折、実母を追いだした2度めの母に生命保険が掛けられていることを知り、ホスピス入居の資金欲しさに殺害を計画する…という設定。
ストーリーは他愛ないが、死を待つ実母の気持ちをなんとか引き立てようとする娘に母が穏やかにつぶやく場面がいい。うろ覚えだが、こんな趣旨だった。
「生きていく苦労に比べれば、死ぬのは気楽だよ。(じっと寝ているだけでいいのだから。)それに、あんな立派なホスピスで死ねるなんて、人生の最後にこんな幸福なことはない」
そういって、弱々しいが、真実うれしそうにほほ笑むのである。
改まって書くと、このセリフだって目くじらたてるほどのことでないように思われるが、当たり前にみえる言葉に、妙に実感がが伴ってくるのは年齢のせいだろうか。

これに関連して思い出されるのは本ブログ143回に引用した東大宗教学教授岸本英夫の文章である。
「死を見つめる心」の著者岸本英夫の密葬には『別れのとき』と題した彼自身の文章の抜粋が朗読された。岸本は悪性の皮膚癌を発病し、10年間に20回の手術を受けて亡くなった。この間、死を凝視しながら、たくさんの文章を発表し、講演もおこなったが、最後まで宗教は救いにならず、「死は別れのとき」という心境に達して穏やかに旅立ったと伝えられる。
宗教学者が宗教を信じないとは…と当時、宗教関係者からは冷たい目でみられたが、いわゆる無神論的な文化人、知識人の多くに広く支持された。
岸本の基本的なスタンスはーー<死>などとおおげさに思うから怖くなる。死といっても私たちが日常何度も経験している<普通の別れ>だと思えばいいという。このくだりを抜き書きしよう。

「人間は長い一生の間には長く暮した土地、親しくなった人たちと別れねばならない時が必ず一度や二度はある。もう一生会うことはできないと思って別れなければならない。このような別れは常に深い別離の悲しみを伴っているが、いよいよ別れの時がきて、心を決めて思い切って別れると何かしらほっとした気持にもなることすらある。人生の折にふれての別れとは、人間にとってそのようなものである。人間はそれに耐えていける。死は、このような別れの大仕掛けなものでないか。死に臨んでの別れは全面的であるということ以外、本来の性質は時折人間がそうした状況に置かれ、耐えてきたものとまったく異なるものではない。」

じつはこの文章をボクはこれまで何回か読んだ。しかし年齢も若かったせいか、ピンとこなかった。凡庸な発想だ、当たり前のことじゃないか、なぜこんな文章があちこちに引用されるのか、わからなかった。もっと気のきいたことをいってほしいと思った。
しかし、先日久しぶりに病の床で読んだとき、ふと現役時代に何度も経験した転勤の場面をこの<別れのとき>にだぶらせてみた。
地方から本社へ戻るとき、気取って船で支店の人たちと別れを告げたことがある。みんな思い思いに甲板のボクにテープを投げてくれた。入社して間もない気立てのいい女子社員、よく衝突した古参社員、馴染みのスナックの女性たち一同もきてくれていた。感傷的なミュージックが流れる。本社勤務では味わえない思い出の数々が通過する。
「きっとまた会おう!」とお互いに叫び合い、ボクも心底そうなるように願ったが、一方で再び会うことはまずないだろうという冷めた確信もあった。これが人の世なのだと自分に言い聞かせていた。
――そうだ、岸本がここで言っているのは、あのときの心境なのだ、とひらめくものがあった。やっと心にしみるようになった。

安物のスリラーのセリフと、碩学が命がけで10年かけてたどり着いた境地を並列させるのはおかしいかもしれないが、ボクの素直な感想だ。

303 友の遺作(1)小説もどきを書くきっかけは寝たきり認知症の同

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 303
303 友の遺作(1)小説もどきを書くきっかけは寝たきり認知症の同級生

 先日亡くなった、高校時代からの親友、梶陽一の奥さんが見舞いにきてくれた。帰るとき、一枚のフロッピーを置いていった。梶が生前ボクに渡すようにいっていたという。高校時代、作家志望だった彼はその後一流大学の経済学部に進み、結局、大企業のそれなりのポストに着いて定年退職した。定年後は、作家になれなくてもせめて小説のひとつでも残して死にたいと、なにかこつこつ書いていたようだ。彼とボクは月に二度ほど誘いあって繁華街の居酒屋で飲んだ。ちょっと酒がまわると、彼は「年とって見栄もはったりも必要なく、お互いそこそこの小銭があって、こうして昔の友人同士で遠慮なく飲めるなんて最高だね。日本が滅びても、地球が消えても関係ないよ。そのちょっと前に二人とも地球から脱出しようぜ」と口癖のようにいった。一カ月ほどの病で彼はあわただしく脱出していったが、病気のことはだれにも言うな、と家族に口止めしていた。葬儀もひっそり家族葬で営み、もっとも親しい友人であったボクにも訃報が届いたのはかなりあとになってからだ。

フロッピーの冒頭にたぶん、ボクあての長いメモのようなものがあった。
「去年、中学の同窓会があり、欠席者には近況を書いてもらった。そのうちの一通に『私はいま老人施設にはいっています。同窓会には一度も行っていないので、ぜひお会いしたいのですが、体が不自由で出かけることができません。とても残念です。みなさまによろしくお伝えください。これはヘルパーさんに代わりに書いてもらいました』というのがあった。Kからだ。驚いた。高校は俺とは別のところへ進んだが、筋骨隆々の器械体操の選手だった。訪ねて行った。
施設は大阪・和歌山の境界にあり、Kは四畳半ぐらいの個室に寝ていた。そばに車いすがあった。はじめ、きょとんと見上げていたが、俺が名前を告げると、泣き顔になり、すぐ元に戻った。思い出話をいろいろするうちに、器械体操とか、同級生の名前が出るときは、すぐ泣き顔になった。自分はうまくしゃべれないが、記憶の琴線にふれると泣き顔になる。病名とか症状を聞いてもまったく反応がない。身体の不自由のほか、すでに認知症が始まっている感じだ。別れるときは少し長く泣き顔が続いた。広い胸、高い鼻。中学生時代の面影がそのまま残っている。俺と同じ年。70歳を超えたばかりというのに、心も体もおかしくなっている。

一年後、中学時代の同級生数人と再び出かけた。去年の老人ホームとは違って、今度は近くの整形外科病院に付設する老人施設だった。大部屋でKの枕元には、床ずれ防止のために二時間ごとに体位を変えること、食事を与えるときはとくに誤嚥に注意、といったヘルパーさん向けの表示があった。一年の間に排せつも食事も、寝がえりをうつことも自分ではできなくなったのだ。声をかけても去年のように反応がない。無表情でこちらをまじまじと見つめているだけだ。「器械体操の選手だったなあ」といったとき、一瞬泣き顔になった。まだ記憶のかけらは残存しているのか。
ひいき目でみるのでないが、同室の老人たちの中で、Kは抜きんでて、聡明そうで鋭い風貌をしている。だが、ほかの老人はテレビをみたり、ベッドに上半身を起こしたりできるのに、Kだけは行儀よくヘルパーさんになされるままなのだ。

高校時代、気晴らしにときどき彼の家に行った。国道に面した二階家で、階下は自転車やオートバイの部品工場に貸して生計を立てていた。父親は早く病死し、母と兄の3人が二階の2間でひっそり暮らしていた。母親には苦労をかけたから自分自身より大切にする、近所に好きな小学生の少女がいる、彼女と結婚できなかったら、一生結婚しない、などと言っていた。それからはお互い大学にはいって以来、ずっと会っていなかった。
しかし彼のうわさはよく耳に入ってきた。関西の私立大学を出て中堅企業の広報マンとして張り切っている。文章が得意だそうで、俺の方は大学入学とともに作家をあきらめたが、彼はずっと、「芥川賞をとるまで、同窓会には出席しない」と公言している。四十代半ばになると、さすがに芥川賞は諦めたらしいが、今度は「梶よりえらくなってやる。彼を見返すまでは同窓会にも出ない」と俺をライバル視していたそうだ。けっこう負けず嫌いなのだとあまりいい感じを持たなかった。退職後は中国への一人旅を楽しんでいたが、同級生が同行を誘っても断ったそうだ。

あれもこれも風の彼方に流れ、彼の名前さえ忘れかけていたとき、老人施設での近況が飛び込んできたのだ。
あんなに避けていた同窓会に、ヘルパーさんの代筆で近況を寄せてくるなんて。彼の負けず嫌い、プライドはどこへいったのだ。こんなことなら元気なうちに一度でも同窓会に出て、みんなとはしゃいでほしかった。
病院は個人情報に関することだからと多くは教えてくれなかったが、彼は生涯独身で、母も兄も数年前に死んで肉親や家族はひとりもいない。中級の認知症で、他人が後見人になって入院手続きをした、などがわかった。
かっこうのいい鼻柱に、大きな鼻の穴、深い洞察をたたえたまなざしで、ベッド傍の俺をじっと見上げている。まだ意識のしっかりした部分があるという。それだけに多くの老人とともにここで死を待っている心境をおもうとつらかった。次々目標を立て、実現できないまま、奮闘し続け、きっとあまり楽しくない日々の果てに、寝たきりの認知症老人として没しようとしている。

Kよ、君の生きてきた存在証明はどこにあるのか。君が出会った人たち、できごと、そのとき君の感じ、考えたことを…、といいかけて、これはなにもKだけの問題でないことに気付いた。俺自身もいずれKのようになる。俺の生涯で出会った人やできごと、時代をたっぷりフィクションを凝らしていまのうちに小説もどきに書き残しておこう!
これがこの小説を書き始めた俺の動機だ。」以下略。
次回から梶の遺作、小説もどきを奥さんの了解を得て書き写す。(つづく)

302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還

302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還相」

とりあえずは現実世界のルールに従って浮世を奮闘する。にっちもさっちもいかない状況にくると、どうせ浮世じゃないか、我らウジムシじゃないか、と虚無のルールに切り替え現実を軽くみなして大胆に明るく乗り越える。ピンチを脱するとすばやく現実世界のルールに戻ってくる。福澤諭吉の二重視点法はまことに重宝である。実際、ボクはサラリーマン時代に何度といわずこの方法、発想を使わせてもらった。ストレス発散にも効き目は保証する。

これに似たことを以前、中国の故事で知った。手元に文献がみつからないのでうろ覚えのまま記すが、ある国の若い王が「わが国はどうも沈滞気味だ。このムードを打破する何かいい知恵はないか」と側近たちに尋ねた。重臣の一人が「何事も“軽さ”が必要です」と答えた。

たとえば、会議などで若い人たちがいろいろ提案しても、古老格が重々しく「それはすでに○○年前にいわれていたことだ」とか「××の問題点があるではないか」「…失敗した前例がある」などとことごとく否定する。こういう状態が続くと、だれも積極的に発言しなくなる。訳知り顔の古老の権威的な声が重しになり、結局は「現行通り」がいつまでも続くことになる。
会議が軽い雰囲気だと、若手も発言しやすい。議論が盛んになり、新しい考えや施策が飛び出し、結果的に政治は活性化するというのだ。
ボクが小さな管理職についたとき、まず心がけたのはこの教訓だった。実際にやってみてマイナス面も少なくなかったが、プラスが上回ったと思う。

福澤の二重視点法に関連してもうひとつ。
無常観と現実世界、二つの視点を、おもしろおかしく、「あの世のルール」、「この世のルール」、と言い換えてみよう。
福澤はこの世を渡るにあたって、ふたつのルールを臨機応変に併用しろ、といっている。

ここで連想するのは親鸞の「往相還相」だ。以前読んだとき、往相は「浄土に往く」というのだからまあわかるとして、わからないのは還相だった。仏教辞典には「浄土から現実世界に帰ってきて生きとし生きるすべての存在を救う」とある。十数冊の解説書にあたったが、いずれも字句を追った平凡な逐語訳で踏み込んだ説明がない。まさか幽霊になってこの世に出現せよ、ということではないだろうし、結局、「煩悩があるから完全にはできなくてもこの世で浄土を体験した心境で、他人のために教えを伝え、奉仕する。人間関係の心構えを変えること」という型どおりの理解に終わった。
仏教に縁のないボクにはなんだか平凡で、色あせて、教訓的でピンと来なかった。
だが、いまふと気付いたのだ。これに二重視点法をあてはめると趣旨が若返り、活気づく。

つまり、われわれはこの世のルールで、この世を生きているが、しばしば挫折し、立ち往生し、窮地に陥る。世間体やまわりを気にして絶望することもある。だが、福澤諭吉のようにこの世にあの世のルールを導入すればどうだろう。この世(現実世界)を超えたあの世(虚無・無常観)のルール・価値観で見直せば、この世の現実も景色も随分変わって見えるだろう。自分の立ち位置だって一変するのでないか。

福澤諭吉は笑っている。
「どうせ浮世じゃないか。どう転んでも大したことはない。お前さんごとき浮世にうごめくウジムシの分際でクヨクヨあくせく気に病んでどうなる」

還相の「浄土で悟ってこの世に戻って人々に尽くせ」、というのは福澤流にいえば、浄土の視点でこの世を見ろ、ということでないのか。そうすればじつにすっきりと分かってくる。

小さいことにクヨクヨするな、とか、束の間の浮世をはかなく生きる仲間だ、少しは他人の立場もわかってやろう。ついでに動物や植物、むろん、ノラ猫の立場もときには考えてやろう、みたいな広々と、やさしい気持ちになるのでないかな。

さて、ボクは身体に異変が生じ、しばらく入院せねばならなくなった。
郊外の新しい大きな病院で、思い切って広めの個室に入った。高層の病室からは街や森が一望に見下ろせる。朝日も夕日も美しい。いまのところ、ボクにとってここは「死」に一番近い空間でもある。(つづく)

301 無限を信じる(23)ウジ虫の独立自尊――福澤諭吉の二刀流

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301 無限を信じる(23)ウジ虫の独立自尊――福澤諭吉の二刀流

「天の領分に侵入し、その秘密を摘発しその真理原則を叩き、叩き尽して…」と、乱暴とも思える言葉遣いで宇宙・無限に挑む福澤諭吉だが、別の個所では宇宙の広大、精妙、不可思議さに比べれば人間などウジムシ(蛆虫)にすぎないと、『人間蛆虫論』を展開している。

「宇宙を観じ、思えば思うほど、いよいよますます、際限なく、ひとり茫然とする。天の無限に比べてなんという人間の卑小。とうてい人間の知恵では計り知ることができない。」
「地球の万物、上は人類より下は鳥獣草木土砂塵埃にいたるまで、なぜ存在するのか、いったいだれが造ったのか、不可思議というほかはない。造り主を次々さかのぼっていっても最終的な造り主はついにわからない。」

人間とはしょせん「天の前に無知無力、見る影もないウジムシだ、そいつが偶然にも束の間をこの世にお邪魔し呼吸し、眠り、食い、たちまち消えて跡かたもなくなる存在」にすぎない。――これが福澤の人間蛆虫論である。いわば暗の思想である。

ただし、ここから福澤は開き直ったように、逆転の発想をするのだ。
「人間をウジムシと軽視するのは人間の心の本体である。だが、同時にそれを前提にしながらも、この浮き世を精いっぱい独立自尊をめざしてがんばってやろうじゃないか、という心の働きを人間は持つのである」。
〈蛆虫〉から〈独立自尊〉へ180度のUターンである。
人間の圧倒的な無力を痛感する視点をバネに「浮き世を軽く認めて、人間万事を一時の戯れ」とみなすのである。

福澤の表看板である実学(物理学・科学)も独立自尊も、さらにその他もろもろの人間的努力の一切が『ひとときの戯れ』とみなす考え方は、仏教的無常観に近い、と小泉仰教授は書いている。
福澤の本心の根底にはこの無常観と人間ウジムシが横たわっている。現世的な実学はそこから派生するひとつの現象なのだ。世渡りの小道具といってよい。

福澤は宇宙や天をどうとらえていたのだろう。
人間には了解できない対象と見た、さらにこのような天をそもそも創造した主は何者なのか、さらにさらに、その創造主を創造したのは何者なのか、次々とさかのぼっても、最終の『創造主』にはたどりつけない。これは無限、あるいは超越的存在、とさじを投げている。
この正体不明の最終創造主は、キリスト教の説く人格神的存在ではなく、「唯不可思議に自ら然るのみ」、つまりあるがままの大自然であった。
またもし仏教なら、無常観にしたがって、自力修行や念仏で涅槃や浄土への往生(涅槃や浄土はもとより物理的なあの世、という意味ではない。これについてはいずれ詳しく)を心がけるだろう。だが、福澤はあの世ではなく、この世で、「無常だからこそ、敢えてこの束の間を、より現実的に、より思い切って歯切れよく」生き抜くというのである。
この心境は仏教用語の『本来無一物の安心』(こだわらねばならないような固定的実体などもともとない)に通じる。

無常観・人間ウジムシ論・独立自尊のつながりについて福澤はこう述べている。
「人生を戯れと認めながらその戯れを本気になって勤める。勤めるから社会の秩序を成すと同時に、本来戯れにすぎないと思っているからこそ、大事に臨んで動揺しない、くよくよ心配することもなく後悔することもなく悲しむこともない、安心して立ち向かえる」
「人間は本来この世に戯れに来て戯れに去っていくウジムシだ。自分自身を始め万事万物をそのように軽く見ればよい。生まれてきたから死ぬ、ただそれだけの話。」
「浮き世の貧富苦楽、浮沈もただ一時の戯れで、その時を過ぎると消えて跡かたもなくなる。人生は戯れに来て戯れに去っていくだけだが、本当はもはやそういう意識さえ捨て去って無の境地になるのがもっと上等だ」とさえ言い切り、『一切虚無の間に仏徳がある』という表現も使っている。

この間の事情を小泉仰教授は『福澤の二重視点法』というキーワードを使って説明している。
「現実世界の視点に立って真剣に生き抜いていこうとするとき、人はしばしば挫折し逃げ道のない限界状況に陥る。そのとき福澤流でいけば別の視点に一瞬のうちに移り、本来この世はうつろい易い虚無の世界であるという見方に立つ。自分の苦悩など本来戯れにすぎないと軽くみなして乗り越えるのだ。乗り越えた後、再び一瞬にして最初の視点に立ち返り、現実世界を邁進する。真剣に人生を生きながら一方で人生を本来戯れであると自覚している…。」

この二重視点法を福澤自身は『本来無一物の安心』と呼び、「浮世を捨てることはすなわち浮世を活発に渡る根本」と書いている。
クリスチャンでもある小泉教授は「こうした悠々自在の福澤の思想は仏教的無常観と独立自尊実学という二つの見方を統一して安心法をつくりあげた。科学万能を信じつつも、人生を戯れと知り、戯れを真剣に生き抜こうとしたものであった」と結論付けている。(つづく)