302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還

302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還相」

とりあえずは現実世界のルールに従って浮世を奮闘する。にっちもさっちもいかない状況にくると、どうせ浮世じゃないか、我らウジムシじゃないか、と虚無のルールに切り替え現実を軽くみなして大胆に明るく乗り越える。ピンチを脱するとすばやく現実世界のルールに戻ってくる。福澤諭吉の二重視点法はまことに重宝である。実際、ボクはサラリーマン時代に何度といわずこの方法、発想を使わせてもらった。ストレス発散にも効き目は保証する。

これに似たことを以前、中国の故事で知った。手元に文献がみつからないのでうろ覚えのまま記すが、ある国の若い王が「わが国はどうも沈滞気味だ。このムードを打破する何かいい知恵はないか」と側近たちに尋ねた。重臣の一人が「何事も“軽さ”が必要です」と答えた。

たとえば、会議などで若い人たちがいろいろ提案しても、古老格が重々しく「それはすでに○○年前にいわれていたことだ」とか「××の問題点があるではないか」「…失敗した前例がある」などとことごとく否定する。こういう状態が続くと、だれも積極的に発言しなくなる。訳知り顔の古老の権威的な声が重しになり、結局は「現行通り」がいつまでも続くことになる。
会議が軽い雰囲気だと、若手も発言しやすい。議論が盛んになり、新しい考えや施策が飛び出し、結果的に政治は活性化するというのだ。
ボクが小さな管理職についたとき、まず心がけたのはこの教訓だった。実際にやってみてマイナス面も少なくなかったが、プラスが上回ったと思う。

福澤の二重視点法に関連してもうひとつ。
無常観と現実世界、二つの視点を、おもしろおかしく、「あの世のルール」、「この世のルール」、と言い換えてみよう。
福澤はこの世を渡るにあたって、ふたつのルールを臨機応変に併用しろ、といっている。

ここで連想するのは親鸞の「往相還相」だ。以前読んだとき、往相は「浄土に往く」というのだからまあわかるとして、わからないのは還相だった。仏教辞典には「浄土から現実世界に帰ってきて生きとし生きるすべての存在を救う」とある。十数冊の解説書にあたったが、いずれも字句を追った平凡な逐語訳で踏み込んだ説明がない。まさか幽霊になってこの世に出現せよ、ということではないだろうし、結局、「煩悩があるから完全にはできなくてもこの世で浄土を体験した心境で、他人のために教えを伝え、奉仕する。人間関係の心構えを変えること」という型どおりの理解に終わった。
仏教に縁のないボクにはなんだか平凡で、色あせて、教訓的でピンと来なかった。
だが、いまふと気付いたのだ。これに二重視点法をあてはめると趣旨が若返り、活気づく。

つまり、われわれはこの世のルールで、この世を生きているが、しばしば挫折し、立ち往生し、窮地に陥る。世間体やまわりを気にして絶望することもある。だが、福澤諭吉のようにこの世にあの世のルールを導入すればどうだろう。この世(現実世界)を超えたあの世(虚無・無常観)のルール・価値観で見直せば、この世の現実も景色も随分変わって見えるだろう。自分の立ち位置だって一変するのでないか。

福澤諭吉は笑っている。
「どうせ浮世じゃないか。どう転んでも大したことはない。お前さんごとき浮世にうごめくウジムシの分際でクヨクヨあくせく気に病んでどうなる」

還相の「浄土で悟ってこの世に戻って人々に尽くせ」、というのは福澤流にいえば、浄土の視点でこの世を見ろ、ということでないのか。そうすればじつにすっきりと分かってくる。

小さいことにクヨクヨするな、とか、束の間の浮世をはかなく生きる仲間だ、少しは他人の立場もわかってやろう。ついでに動物や植物、むろん、ノラ猫の立場もときには考えてやろう、みたいな広々と、やさしい気持ちになるのでないかな。

さて、ボクは身体に異変が生じ、しばらく入院せねばならなくなった。
郊外の新しい大きな病院で、思い切って広めの個室に入った。高層の病室からは街や森が一望に見下ろせる。朝日も夕日も美しい。いまのところ、ボクにとってここは「死」に一番近い空間でもある。(つづく)