300 無限を信じる(22) 人は無限と対等になるーー物理学的宇宙観

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 300
300 無限を信じる(22) 人は無限と対等になるーー物理学的宇宙観

宗教を軽視していた福沢諭吉だが、晩年になってほんの少し仏教を評価し始める。

神道は宗教の体をなしていない。儒教ごときはいまの人心を維持できない。キリスト教は輸入されたばかりでまだ人々に信用されていない。日本人の信仰は数百年の歴史を持つ仏教によるしかない。因果応報などの理は深遠高尚で学者にも通用するし、地獄極楽の説は人々を教育するのに向いている。釈尊の教えは現代人にも通用するものだ」

とはいえ、自身の信仰とは関係ない。あくまで自分は一段上において、功利主義の立場から宗教を品定めしている感じがにおう。

仏教については僧侶の腐敗、怠慢が布教不振の原因だと決めつけ、宗教法を制定して政府からカネをせしめようとしていると批判している。
「仏教者は人の財、世の力に依存せずに、自分の力で、自営自活の道を開け」この文句は福澤得意のキーワード〈独立自尊〉を仏教関係者にも適用しているのだろう。
ただ、親鸞については「非凡の見識をもち人心を達観した。僧侶の腐敗を一掃し、親鸞に戻れ」と評価している。その具体的な理由は明らかでないが、親鸞が自らの名利を顧みず、信ずる道を実践したことが、福澤の実学精神と通じるのかもしれない。

ここまではとくに珍しくない。
福澤のユニークなところは西洋流の実学思想(自然科学・社会科学・人文科学)を展開しながら、同時に宗教性をにじませているところである。

福澤は西洋文明の中でもとりわけ物理学を重視し、ベーコン、デカルトニュートンの名前をあげながら「西洋の学術の目的は万物の理を明らかにし、人生を便利にすること、そのために人々に知力の限りを発揮させることである」とし、科学理論によって人間はいつか宇宙全体、自然、人間社会、人間の心もすべてを知り尽くす日がくる。そのとき、人間はまさに天と並び立つだろうと『文明論之概略』に書いている。
さらに晩年になるとこの物理学的宇宙観はエスカレートする。
「(物理学でもって)天の秘密をあばき出して我が物とし、一歩一歩人間の領分を広くして浮世の快楽を大にする」
「天の力は無限であり、その秘密も無限だが、人間の知性も無限に発達する。物理学を究め、これを利用すれば、人間が天の秘密である自然の真理原則をすべて把握しつくすことができる。」
「(物理学は)天の領分に侵入し、その秘密を摘発し、真理原則を叩き,叩き尽して宇宙を我が手中のものとなす日がくる」

物理学が我が物とするのは宇宙だけでない。人間精神のいっさいも解剖分析によって把捉できる。もはや自然界と人間社会の区別、物質と精神との区別も不必要になる。人間は自らを含めた宇宙全体を物理学的真理原則によって統一的に理解することができる。
物理学も科学も社会も進歩し、人間もまた限りなく進歩する。
「進歩また進歩、改良また改良、聖人はいくらでも出現、極端にいえば、世界中の人がみな孔子ニュートンの知識を兼ね備えた人たちであふれる。病気も克服し、無病となる。こんな黄金世界の時代が必ずくる。これは空想ではない。」と言い切っている。その時代を福澤は「天人合体の日」と名付けた。
(以上『福翁百話』)

物理学をツールに、宇宙の森羅万象、人間を含むいっさいの、物質も精神も知り尽くし、コントロールできるというのである。人間はみんな聖人君子になるであろう、病気もない、幸福な社会が到来するであろうという。人間は科学によって、天(無限)と対等になれる。
現代からみると、こっけいなくらいの楽天主義だ。
しかし、これは福澤のひとつの顔である。「明の思想」である。
福澤にはもうひとつ別の顔がある。「暗の思想」である。
(つづく)