299 無限を信じる(21) 「生物と無生物」の間の無限

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 299
299 無限を信じる(21) 「生物と無生物」の間の無限

人は自分の及びもつかない「超越」を意識したとき、宗教や哲学への思いが芽生える。むろん、超越は宇宙とか無限とか、大きなものとは限らない。
生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)は限りなく無生物に近い極小の生命のシステムが描かれていて評判通りの面白さだった。

こんな個所がある。
「海辺に砂でつくられた城があるとしよう。波と風は砂の城壁を絶え間なく削り取っていく。ところが城は相変わらず同じ姿を保っている。
なぜか。われわれの目には見えない海の小さな精霊たちが崩れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、直しているからだ。いや、むしろ精霊たちは壊れそうな場所を波や風より先に修復し補修しているのである。
ここで重要なことは城の砂は数日前のものとは違う。ことごとく新しい砂に入れ替わっていることだ。砂粒はどんどん流れ、動き続けている。この城は実体としての城でなく流れが作り出した『効果』として見えているだけなのだ。さらにいえば、城の砂を絶え間なく分解し、再構成している精霊たちもまた砂粒からつくられている。彼らの何人かは元の砂粒に還り、何人かが砂粒から新たに生み出されている。」

砂粒を水素、炭素,酵素、窒素などの元素、精霊たちは生体反応をつかさどる酵素や基質におきかえると、この砂の城のたとえは、生命のありようを正確に記述しているのだそうだ。
生命は元素たちのもたらす『効果』という言い方はちょっとしゃれている。ほかにも「(生命とは)一時的な『流れそのもの』、分子のゆるい『淀み』でしかない」といった表現もある。

アウグスチヌスは「ときは永遠の影だ」といった。砂たちが相互に作用しあって形作るつかの間の『効果・流れ・淀み』という命の仕組み。そのはかない点滅は永遠の何を映しているのだろう。この考え方は前回の哲学者西田幾多郎滝沢克己の「私という人間は絶対者の表現点として刻々に設定されている」という表現に共通するものがある。同時にこれは仏教の『無』『空』『一期一会』のイメージだ。

 宮沢賢治は無限の存在を深遠な童話のように描いている。
「わたくしたちが柄杓で肥を麦にかければ、水はどうしてそんなに、まだ力も入れないうちに水銀のように青く光り、たまになって麦の上に飛び出すのでしょう。また砂土がどうしてあんなに、のどの乾いた子どもの水を呑むように肥を吸い込むのでしょう。もうほんとうにそうでなければならないから、それがただひとつのみちだからひとりでどんどんそうなるのです」(「イーハトーボ農学校の春」より)
 根本的な永遠・絶対的主体のもとで、人間の営みはこの麦や砂土と同じようなものかもしれない。決して自分の力で存在しているわけでないのだ。

 本ブログ295回で近代的な啓蒙期の合理主義者、宗教に無縁な実学主義者として福沢諭吉を取り上げた。しかし、彼もまた人間など天空に比べれば虫けらのようなものだと言いきっている。超越のもとで人の一生など芥子粒だと譬えている。ただ一方で、いつか人類は「超越」と肩を並べ得る存在になると、こっけいなくらいの楽天主義を謳いあげている。福沢の超越への姿勢は二重視点になっているのだ。
 ボクは現役のころ、福沢の「人間蛆虫論」が大いに気に入って、この考え方を軸に、仕事上の自分のごますりや卑屈、ずるさを開き直ったものだ。

 福澤は人間の「独立自尊」をモットーにし、無信仰が看板だった。しかし、晩年は独自の宗教的心境に到達したともいわれている。『福澤諭吉の宗教観』(小泉仰著)を参考にこのあたりの事情を簡単にスケッチしておこう。
 『福翁自伝』には少年時代の福澤の有名なエピソードが描かれている。近所の稲荷社の中の本体の石を、自分の拾った石と取り換えて、それと知らずに参拝する人たちを見てほくそ笑んでいたという。この姿勢は基本的に生涯変わらなかった。
 福澤は単に無神論、無信仰というより、考えようによってはもっと性質が悪い。宗教を功利的、政治的に利用することを計算したのだ。

 彼の文章や演説からそれらしいものをいくつかを拾い出してみよう。
 ○「自らを頼む力のないものは他を頼る。すなわち他力の信心ともいう。だから、禁酒にしても禁賭博にしても、神仏に向かって誓うのだ。こういうところには宗教の効用がある。」――清沢満之が聞いたら、なんと浅薄な「他力信心」の理解度であることか、と悲しい顔をするだろう。
 ○「政府は人を治めるのに法律をつかう、人の心を治めるには宗教に限る。」
  「もしわが国に宗教がないのならキリスト教を選ぶかもしれない。しかし、いまはキリスト教が宣教によって信者が急増するのを防ぐべきだ。仏教を防波堤にしよう。なぜなら仏教も元は他国からきたものだが、すでに千年ほどたっており、わが国の宗教といってよいからだ」

――自分は仏教を軽蔑しながら、他方で国民の道徳教育に利用しようとの功利性がみえる。さらにキリスト教と仏教を戦わせて自分は漁夫の利を求めようとする策謀さえ感じられると福澤諭吉協会理事でもある小泉・慶応大名誉教授は指摘する。(つづく)