298 無限を信じる(20) 親鸞、西田幾多郎、梅棹忠夫の無限と虚無

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 298
298 無限を信じる(20) 親鸞西田幾多郎梅棹忠夫の無限と虚無

親鸞という宗教家は「自分だけよければよい、のエゴイストなのだろうか」とボクがいぶかったもう一つの場面。
それは歎異抄の【後序】に出てくる「弥陀の(本願を)よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」のくだりである。広く大衆を救う本願を立て長い修行を重ねて願いを達成したとされる阿弥陀仏は、じつは自分親鸞だけのために本願を立てたのだ、といっているのである。親鸞以外のほかの人たちは関係がないというのだろうか。

このくだりはこれまでも信者の間でいろいろ物議をかもしたらしい。西田幾多郎カール・バルトの影響を受けた哲学者で、キリスト教神学者マルクス主義にも詳しい滝沢克己はこの個所を重視し、著書『歎異抄と現代』の冒頭に、まずこの問題を取り上げている。

ちょっと読むと「幾万幾億という人間の中からとくに選ばれて真実のみほとけの救いを受けた至福の人、世界にまたとない無上の幸せ者、それが自分だ」といっているようにみえる。だが、親鸞一人のため、というのはどういう人間を指しているのだろうか。
選別に慣らされた現代人には思いもおよばぬことだが、親鸞自身の能力とか、業績とか、身分とか、境遇とかによって親鸞が選ばれたわけではない。
歎異抄の他の条項にはそれがはっきりうたわれている、と滝沢はつぎのように書き写している。

『弥陀の本願には、老少善悪を選ばれず…』(第一条)
『うみかわにあみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畑をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。…』(第十三条
『聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり』(後序)

殺生する漁師や漁民も、農民も、職業や年齢や身分にかかわりなく、学問のあるなしや善人悪人を問わず、だれもに救いの本願がかけられている。親鸞はとくに選ばれたわけではない。大衆の中の、ごく平均的な一人にすぎないことが強調されている。
個人と人類全体がひとつに合体している。矛盾しないのだろうか。これは282回に紹介した、清沢満之の、無限と有限の図式に似ている。滝沢は「絶対に代替不可能なこの私ただひとり」と「絶対に私ではない、この私と同様に代替不可能な他の人間」は共通する普遍のものだ、とむつかしい、理屈っぽい言葉遣いで個人の尊厳と万人の救済を説明している。

個人と人類がひとつといえば、歎異抄5条は「生きとし生きるもの、一切の有情はすべて父母兄弟だ」とうたいあげている。だから親鸞は「父母の孝養のための念仏など唱えたことがない」といいきっている。
肉親の愛に薄かったボクは中年の頃、はじめてこの文句に触れたとき、とても心強かった。ボクには肉親はいなくても、みんなが仲間なのだ、人類はひとつだ、愛に包まれてみんな一緒だ、と小躍りする思いがした。その後も、それまでと同じように、裏切ったり、裏切られたり、喜びと悲しみと幻想と幻滅を繰り返しているけれど、それでも、はじめのあの時の連帯の思いはいまも新鮮によみがえってくる。

余談だがーー親鸞は小さいころ、父母に別れ、肉親の愛を知らずに成長した。中世のすぐれた僧にはなぜか親や肉親の愛を知らずに育った人が多いらしい。法然道元明恵蓮如、一休などなど。
明恵上人は「自分のために」とか「だれそれのために」とお経をあげてほしい、祈ってほしい、という頼みには一切応じず、「私はいっさい大衆の幸せを念じている、そのなかにはあなたも当然入っている」と答えたそうだ。肉親の情に接することが乏しかった分だけ、孤独の心、さみしさは大勢の他者との連帯へ心が広がったというわけだ。
だが、またまた余談だがーー孤独は何も肉親との関わりだけで発生するわけでもあるまい。

その事例はいくらもあるが、ここでは明晰でドライ・論理的で知られる学者、梅棹忠夫の述懐を引用してみよう。
「社会生活から脱落して家にこもっているあいだ、友人たちが見舞いに来て大学や世間の動きを聴いているうちに、わたしは世の中がなにごともなく進行していることに気がついて愕然とした。自分という存在が、なんの意味ももっていないことをおもいしらされた。なんとなく自分を中心に世界を回転させている。それがじっさいは、自分抜きで 世界は動いているのだ。私は深い虚無感を抱くようになった。」
 もうひとつ。
「私は人類全体の一個体に過ぎない。人は長い間生きて来たなかで、空空漠々の中に消えていく。そういう一個体としての自覚がわたしにはある。」

余談ついでに、滝沢はまだ無名のとき、日本の代表的な哲学者西田幾多郎について論文を発表し、39歳年上の西田は「あなたほど私の考えを理解してくれている人はいない」と滝沢に手紙を送ったというエピソードがある。西田哲学の基本概念のひとつ『絶対矛盾的自己同一』も、清沢の『有限と無限』、親鸞の『一切の有情と肉親』に通じるところがある。滝沢の説明をボクが乱暴だが、要約して紹介しておく。
 
「自分は自分だけで存在しているわけでない。自分の成り立ちの根底は自分ではつかめないが、そのときすでに自分は(無限の主体に)捉えられている。有限の自己と無限の主体が矛盾のままで直接にひとつであるという根本的な事実を西田は『絶対矛盾的自己同一』という言葉で表現した。無限の主体――それは永遠の生命、愛、光であるなにものか、が私をつかんでいる。私はその絶対者の表現点として刻々に設定されている。」