296 無限を信じる(18)2つの人生不可解――清沢満之と藤村操

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 296
296 無限を信じる(18)2つの人生不可解――清沢満之と藤村操

 清沢満之は明治36年6月に40歳に満たずに亡くなったが、1か月ほど前に、旧制一高(東大教養学部)の学生だった藤村操が〈人生不可解〉の遺書を残して日光華厳の滝から投身自殺した。生きる意味、宇宙の真理などを考え抜いたあげくの死だった。この自殺は若者たちに大きな衝撃を与え、人生不可解を合言葉に彼を模倣した自殺が相次いだ。明治前半は福沢諭吉らによる楽天的啓蒙的な立身出世主義の風潮が充満していた。しかし、明治後半の若者たちは伝統的な精神と西洋思想のはざまで人生のよりどころを求めて苦しんだ。藤村操の自殺は象徴的だった。

ここでちょっと293回に戻ると、満之の『明治の歎異抄』(我が信念)の第二項には「私が少しまじめに人生の意義を考え始めると、どうしても〈不可解〉にぶつかった」とある。

満之と藤村操はともに人生不可解にたどり着き、煩悶した。だが、両者の行き先は異なっていた。
ふたつの不可解について大谷大学の安富信哉教授は『清沢満之と個の思想』で次の趣旨を述べている。
「自我につまずいた二人の近代人の姿。ともに人生不可解を告白し、一方は死を決し、他方は信へ向かう。一方は自我を貫いて滅び、他方は自我に破れてよみがえる。この二人の自我の行方は、そのまま近代人の未来を暗示しているのでなかろうか」

たしかに満之は『我が信念』に「もしあのままの状態が続いたなら私はとっくに自殺しただろう。いまそんなことは思わない。なぜなら、私のいっさいの責任は如来が引き受けてくださるからだ」と書いている。

ボクは、「自殺が滅び」、とは必ずしも思わないし、「信がよみがえり」、とは万人にあてはまるわけでもなかろうと思う。
ただ、本人が信を得ることでこの世を「安心し、心豊かに、他人に迷惑をかけず、他人と労わり合いながら過ごせるのなら」生き方の指針として、そんな結構なことはないと思う。
満之は類まれな理論派であったが、それ以上に実践家であった。
かつて浩々洞の三羽ガラスといわれた高弟の多田鼎は、のちに師・満之を「親鸞の教え以上に、自分の実験を重視した」と理論面では非難する側に回った。しかし、同時に「外部にいて師の精神主義、実験主義を笑った者も、実際に師が片手に唾壺をもって、古武士的な風姿と厳しい舌鋒で理路整然とみずからを犠牲にした実験を語られるとき、だれもが心を揺り動かされた。私もその一人であった」と述べている。

この世を、よく生きる、安らかに生きる、心豊かに、満足して生きる、他人とも仲良く生きる、そしてそもそもこの世とは何か?
そういう願いと意味と疑問を導く手引きとして宗教や哲学、もろもろの学問は生まれてきたのだろうが、それは自分が寝転がって他人の作った団子をぱくつくようにして得られるものではあるまい。

父と母がそれぞれ自殺し、自身も職場を転々としたあと何度か自殺を図ったことのあるプロレタリアでクリスチャン作家、椎名麟三はこう言っている。
「信仰は純粋に個人の事柄で、信仰一般などというものは存在しない。それどころか同じ信者の間でもわかりあえない、交通不能なものだ」
「私がキリスト教に入信したのはまったく偶然だ。ほかの宗教と比べて一番よいと判定を下したわけでない。たまたま私に文学の目を開いてくれたドストエフスキーという人が作品を通じてイエス・キリストという名を私に示してくれた。私はドストエフスキーを信頼したのだ。」
「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それなのにそんな宗教を探さないのはキリスト教が、私の求めるものに対して必要にして十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気にならないというだけのことだ。だから他の宗教を批判する根拠も勇気もない。ただ、立派な宗教家といわれる方には不思議に一脈通じている何かが感じられる。あの親鸞には肉体的な親近感すら感ぜずにはいられない」

この世をどう生きるか、そのガイドブックは結局自分自身が作るほかはない。他人の言説は参考にはなるが、やっぱり自分が苦しんで悩んで考えて格闘して挫折して、他人の歴史を参考にまた立ち上がって…。そのあげくに一歩一歩近づくという性質のものだろう。
清沢満之はそれを実践したのだ。
脇本平也先生は「満之が明治の知識人一般の心をあれほど捉えたのは、宗教の教義学的な是非ではない。なにより信仰体験のなまなましさであった」と書いている。(つづく)