295 無限を信じる(17)二つの平等――国も捨てよ 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 295
295 無限を信じる(17)二つの平等――国も捨てよ 

宗教、信仰の個人主義化、近代化を進めた清沢満之だが、一方で「反近代的」でもあった。脇本平也先生は「明治の近代が産み出した悪に対しては反対批判の姿勢を失わなかった」と292回に紹介した満之の剛毅な『消極主義』を引き合いに出す。
そのころ東京は近代化にわき、競争と積極主義で沸騰していた。これに反し満之は消極的安心を唱えた。「東京市中の積極主義は金銭、名利のために競争し奮闘している。この弊害を救うのは消極主義しかない。」
満之の消極主義は逃げ腰なのでなく、世俗・立身出世の風潮に対する不屈の対決を意味したのだ。

大谷大学の延塚知道教授は著書『他力を生きる』のなかで、近代の象徴のような福沢諭吉と、近代をチェックした満之を比較対照している。
そのころ日清戦争の勝利で日本は世情も道徳も混乱していた。明治32年には外国との間に交わされていた不平等条約は撤廃され、外国人の内地雑居が認められることになった。事実上の開国だ。ここで福沢は立ち上がる。新時代に対応した日本人の生き方・修身道徳の基本になるものを作り出すようにと門下生たちに命じる。福沢は大病の後である。門下生たちは福沢の思想をひとことで表す標語を考え、それを中心に修身要領を練ろうということになった。その標語は『独立自尊』と決まった。福沢の死の1年まえに修身要領が発表された。序文は「日本国民は万世一系天皇を戴きその恩徳を仰ぎ…」とあり、天皇家を中心とする日本国の独立が至上目的にうたわれている。

福沢は私費を投じて全国に遊説隊を派遣し道徳運動を展開する。死を前にして福沢の真摯な愛国心がうかがえる。

――天は人は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、の言葉で名高い『学問のすゝめ』(明治五年)で福沢は「平等→実学→国家の独立」を説く。
みんなが平等になる権利を与えられている。その権利を行使し実学を学び個人がそれぞれに独立せよ。国家も同じことである。――だが、実際問題、万人が平等になれるわけはない。それぞれが強烈な自己保存本能を持っている。それは一方で平等を唱えながら、他国を侵略していった近代日本の歴史を見ればわかる。実学によって列強諸国に追いつけ、それが国家の権利である、という福沢は、同時にそうしない個人に向ける目はじつに厳しく冷たい。
「学問をしない人間は、道理も知らず。できることは飲み食いと夜寝て朝起きることぐらい。こういうバカ者は力で脅すほかに手はない」という意味のことを同じ『学問のすゝめ』に述べている。

さらに13年後に発表した『脱亜論』のなかで、福沢は「日本が主義とせねばならないのはとにかくアジアを脱することである」とか「日本は隣の国の発展を待ってともにアジアを興すなどとは考えてはならない。西洋の文明国と手を携えるべきだ。アジアの悪友と手を切れ。朱に交われば赤くなる」とむきだしの表現をつかっている。

これに対して満之は「無限平等→生死問題→真理」を掲げる。人はだれも死ぬ。この問題の根本的解決を通じた真理を求めた。福沢は死を見ないで、生だけに執着している。それは自力主義だ、必ず砕けるというのだ。
「生のみが我等にあらず。死もまた我等なり。我等は生死を併有するものなり」と「絶対他力の大道」に書いている。生死に左右されない独立をめざし、それは生死の全体を貫く如来の「無限他力」に任せるというのだ。具体的には「足りない者は求め、あまった者は与え、お互いにその徳を認め合って如来の子としての平等をこの世で実践して…」となる。

このあたりになるとボクにはさっぱり縁遠くなる。そういううまい具合にいくものか。この世のリアリズムは福沢流こそがすぐれた道筋――だが、一方で福沢流では絶対に平等になるはずがないとも断言できる。平等どころか一層格差は進行するばかり。人類とおおげさなことはいわなくても、現代日本だってそうじゃないか。こうしてニーチェのいうとおり、人間は過去も未来も、むなしく永遠回帰をくりかえすのかと詠嘆したくなる。この点はのちに親鸞の往相還相のなかでも触れよう。

ともあれ、福沢と際立った違いは満之の〈国家〉という枠を超えた考え方だ。
「道徳宗教の主義は、単に国家のみを至上とすべきにあらず。略。世界人類の安心を求めんと期するところの源泉」「病床雑誌」
「まじめに宗教的天地に入らんと思う人ならば、釈尊が教え給いしごとく、親も、妻子も捨てねばなりません。財産も捨てねばなりません。国家も捨てねばなりません…」「宗教的信念の必須条件」

国家主義の熱気渦巻くなかで、よくぞこんな表現ができたものだ、とボクは感心する。事実、仏教界からも「社会主義を抱く破壊党」などの批判が出たという。(つづく)