294 無限を信じる(16) からだを張った実験主義・信仰の個人主義

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 294
294 無限を信じる(16) からだを張った実験主義・信仰の個人主義

清沢満之が駆け足でこの世を去ったのは明治36年6月6日。まだ39歳だった。『我が信念』を脱稿したのは死の一週間前だったが、その1年ほど前から、だめ押しのように苦難と悲惨が満之に降り注いでいた。
前年の6月には長男が11歳で死んだ。10月には妻が36歳で死んだ。同じ10月に真宗大学で副学長の排斥運動が起こり、責任を負って学長を辞任した。

「私の事は終わった」
「今年はみんな砕けた年であった。学校はくだける。妻子は砕ける。今度は私が砕けるのであろう」と友人に言い残して、11月に実父が引き取られている妻の実家西方寺に帰っていった。
翌年の春、とどめを刺すように5歳の三男が父を残して旅立った。
その2ヶ月後、満之の喀血が続き、京都、東京から弟子たちが急いでゆくという連絡がはいったが、満之は「生きているうちには来られまい」と苦笑しながら息絶えた。満之のいる蚊帳の中には実妹と弟子1人だけが見守り、家族は蚊帳の外で待機していたという。

満之の短い生涯が走馬灯のように流れる。
:神童とうたわれたころ。
:母に連れられて聞法によく通ったお寺。
:母は熱心な信者だったが、「(仏教の)薄紙一重のところがいまひとつわからぬ」と満之につぶやいたという。
:元足軽の父は頑固で世渡りがへた。お茶を行商したが貧しかった。
東本願寺の留学生として東大哲学科に進学。抜群の成績で卒業した。
:東大大学院に進む一方、一高(のちの東大教養学部)、哲学館(のちの東洋大学)で講師として教鞭をとる。
:当時、東大出の文学士の社会的評価はきわめて高く、同じ講師クラスでも段違いの高給とりだった。
:前途洋々の新進学者だったが、東本願寺に懇望され、考えあぐねた末に「自分のことより宗門の子弟教育に尽くそう」と京都府立一中の校長に赴任する。翌年東本願寺の肝いりで愛知県の有力寺、西方寺の娘と結婚。婿養子にという西方寺と、反対する父の反目が続き、入籍はしなかった。7年後、満之の発病で経済的事情から父が折れ、やっと入籍。
:新婚当時、地元新聞の読者投票で京都の学者三傑に選ばれ、中学校長として広壮な家、新式な洋服、山高帽、ステッキ、西洋たばこ、香水ぷんぷん、人力車で学校に通う。
:二年後、一転して行者的禁欲生活に入る。校長を辞職し平教員に。洋服はすべて人に与え、自分はみすぼらしい法衣に。たばこはやめ、人力車の代わりに歩いた。妻子は遠ざけ、菜食主義から塩を絶ち、そば粉を水にとかすだけの粗食主義へ。世俗を否定し、聖なる僧になるための自力修行だ。
:過激な禁欲主義の結果は肺結核。悲運な生涯の発端となるが、満之は逆に自力無効を教えられた高価な実験と受け止める。他力主義に目覚める発端でもあったのだ。
:実父を養う経済力もない、西方寺の信徒からは法話が難しい、肺病患者は寺を出ていけといわれる。こんなとき、エピクテトスの「自力でやれることと、自力ではやれないことがある」という語録に出会う。
:満之の死後、かつて反目した西方寺でひとり老残の身を過ごした父や、そういう父を残して逝かねばならなかった満之の心境などもしのばれる。

――ボクは満之が気の毒でたまらない。そこまで実験にこだわらなくてよかったのに、度の過ぎた禁欲主義もなにか子供っぽいように思ってしまう。だが、こうした試練によって試され、病床で内面が耕され、深められて最後に残った結晶が絶筆『我が信念』だったのだ。満之の遭遇した悲惨とその覚悟へのプロセス。体を張った実験レポートや満之の評伝を読むうちに、ボクは日ごろの憂鬱や不幸感、不公平感や愚痴、挫折感などがちっぽけなものに見えてきた。いつの間にか気分が自由に気楽になっている。これは満之がボクに贈ってくれた、一種の楽天主義のすすめ、でもあるのだろう。

満之は宗門の古来から伝わる教義そのもの、客観的基準とされているものを鵜呑みするのを嫌った。空理空論は拒否した。自分が実際に試して納得してから信じる道に入った。西洋哲学のエピクロスや、当時軽視されていた小乗経典の『阿含経』を取り入れたのも、満之の自由な批判精神と新しい信仰のありかたを示すものだ。これが明治の知識人たちの求道心をとらえたのだった。

弟子の一人は「先生の話の中には、だれだれがこう言った、ということがない。なんでも自分はこうだ、というのが先生の特色」と振り返っている。信仰を自分一人のものとしてまな板に乗せる、この姿勢はーー「ひとへに親鸞1人がためなりけり」という歎異抄後序の親鸞の言葉とも共通している。信仰の個人主義、信仰の近代化への道筋を開くものだった。

だが、みずからの実験を重視するこの姿勢が、伝統的、保守的な宗教学者からは「親鸞の教えとかけ離れている」「仏教本来の教えより自分の実験を重んじている」などと異端視されることになった。
それまで埋もれていた親鸞の「歎異抄」を明治になって再評価し、その後のブームのきっかけをつくったのはほかならぬ清沢満之だったというのに。
次回以降は福沢諭吉などと比較しながら、満之の近代化、反近代化、ふたつの側面をみてみよう。(つづく)