293 無限を信じる(15) 鴎外漱石より読みやすい「明治の歎異抄」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 293
293 無限を信じる(15) 鴎外漱石より読みやすい「明治の歎異抄」 

数多い類書のなかでも定評ある『評伝 清沢満之』の冒頭には満之の絶筆「我が信念」の全文がぽんと置かれている。全文といっても約4千字、原稿用紙で4枚たらず。「これは宗教的古典だ。しかも難解な学者用語も専門的な仏教用語もない。鴎外や漱石の小説より読みやすい。私の解説で印象が汚されないうちにじっくり読み返してほしい」と、著者の東大名誉教授脇本平也のユニークな前文がついている。

明治の歎異抄、といわれるらしいが、たしかに平易で飾り気がない。仏教用語といえば、「如来」が出てくる程度だ。これもボク流に「絶対無限者」と勝手に直して読んでみた。
文章が短く読みやすいだけでなく、内容もすっきり簡潔だ。
「私の信念とは如来を信じる心の有様をいうが、それにはどんな効能があるのか、第一に…」という具合である。効能は三つある。

効能の第一は私の煩悶苦悩が除かれること。いろんな事情で苦悩していても、この信念が心に現れるとたちまち安楽と平穏が訪れる。信念で心がいっぱいになり、他の妄想の入る余地がなくなるのだ。私のように感じやすい性質、とくに病気で感情が過敏になっているので、この信念がなかったら、非常な煩悶苦悩にさいなまれていたろう。信念の効能はこのように実際に煩悶苦悩が払い去られる喜びがあることだ。

第二.効能というのは信じた後に生じることだ。私が如来を信じるのは効能があるからというだけでない。私が少しまじめに人生の意義を考え始めると、どうしても「不可解」にぶつかった。さんざん考え、研究し尽くした。その結果、如来の信仰にたどりついたのだ。だから効能以前に私が得た知恵の究極なのである。
信念を得るにはなにもこのような思索や研究は必要ないのでは?、偶然生まれるのでは?、という人がいるかもしれない。しかし、決してそうではない。私の信念はあくまで思索や研究を通じてたどりついた最終的な結論である。
この信念のポイントは「自力は無功」を信じることにある。これを本心から信じられるようになるには私の知恵や努力や思案のありたけを尽くし、頭のあげようがないほどになるという経過、過程が必要だった。これがもっとも骨の折れる仕事だった。
頭で考えた論理や研究で信念が得られると思ったこともあったが、甘かった。そのあとから次々壊されていった。何が善なのか、真理なのか、非真理なのか、幸福なのか、不幸なのか、ひとつもわかるものでない。私には何もわからないとなったところで、ことごとく如来を信頼するということになった。これが私の信念の大要点なのだ。

第三.私の信念は如来を信じることである。何が真理か、何が幸福で何が不幸か。私にはさっぱりわからない。自力では左右前後、どちらへも身動きできない。この私に自由に動き、生き死にできる能力を与えてくれる本体が、すなわち私の信じる如来である。

(以上がいわば総論で、このあと三点について各論が続く)

 第一は、如来は私に対する「無限の慈悲」であり、第二は「無限の知恵」、第三は「無限の能力」。
 「無限の慈悲」は、如来は来世を待たず、現世においてすでに大なる幸福を私に与えてくれている。ほかのことで多少の幸福を得ることもあるが、この信念の幸福にまさるものはない。これは毎日毎夜私が実験しつつある幸福であり、来世の幸福についてはまだ実験していないのでなんともいえない。

 「無限の知恵」は、私は長年の習慣でつい研究、議論、思考を通じて如来の慈しみを定義しようとする悪癖があった。有限不完全な人智をもって真理や善悪の標準、はては無限者の実在を研究しようとする迷妄、おこがましさがつい頭をもたげることもあった。いまはそういうものが人間の知恵で定まるはずがないとはっきり決着がついた。

さて「無限の能力」について。私たちはふだん何事も自分の思案や分別で行動する。だが、実際にどこまでやれるのか。法律を犯してはならぬ、道徳を守れ、礼儀に違ってはいけない、などなど。このうち道徳の「義務」という問題ひとつをとっても、自分、他人、家庭や社会、親、夫、妻、きょうだい、友人、善人、悪人、年長者、年少者に対する義務など、これをいちいち実行するとなると容易ではない。私はまじめに遂行しようとして不可能の壁に突き当たり、非常に苦しんだ。もしあのままの状態が続いたなら私はとっくに自殺しただろう。いまそんなことは思わない。なぜなら、私のいっさいの責任は如来が引き受けてくださるからだ。私は善悪や過失を懸念せずに自分の思うままに行うだけだ。如来の能力は無限であらゆる場合をカバーしていてくださる。
「死生命あり、富貴天にあり」。私の信じる如来はこの天と命の本体なのだ。

明治の歎異抄、は以上である。
(カッコ内の言葉は、「生死も、財産や地位も、天命によるもので自分がほしいとおもっても自由にはならない」の意味。)

最後の「義務」の個所は少々、時代がかっている印象だ。いまどき、こんな良心的な人はいないだろう。ただ、ボクはこれを捨て猫、ノラ猫にあてはめると、ピンとくる。(このあたりは本ブログ137回から141回まで、親鸞の「聖道門・浄土門」や芭蕉の「野ざらし紀行」、その他吉本隆明さんらを引用して少し書いている。)(つづく)