291 無限を信じる(13)ボクもノラも絶対無限者なのだ!?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 291
291 無限を信じる(13)ボクもノラも絶対無限者なのだ!?

清沢満之らは雑誌『精神界』を通じて精神主義運動を広げていった。拠点の「浩々塾」に行けば悩みは解決されるとまで噂され、訪ねる人たちが日増しに増えた。仏教界だけでなく一般の思想界にも共鳴、反論、大きな反響が渦巻いた。満之はこの雑誌に死ぬまで書き続けたが、精神主義とは何か? 
「それは理論ではない、処世の実行主義だ」と満之はまず断っている。わかりやすくいうと、世渡りのルール、心構えのようなものか。

世間は貧富の差、貴賎を言いたてる。財産や地位を求めて必死に競争する。得れば満足しておごり、得なければ失望して苦に沈む。これに対して精神主義は貧富貴賎の区別などがなにか客観的に不動のものとして存在するとはみなさない。そういうこの世の価値観を超え、競争心を脱却して、いまの自分の境遇に満足する。外観、客観にとらわれず、内観、主観を基準にする。他人の動きや世間のあれこれを追うことをやめて、自分の精神内に充足を求める生き方だ。
この意味で、精神主義は、主観主義、内観主義に立った満足主義なのだという。

といっても何も努力しない、というのではむろんない。満之は心身の限界を綱渡りのように挑んできた。そして、前回引用した姜尚中東大教授の「もうこれ以上考えられないというくらいまで努力し悩みぬく」、鈴木大拙の「自力を出しきってはじめて自力の無効を自覚できるところまでいく」、さらに288回のエピクテトスの「自分の努力で思うようになるものと、ならないものがある」などを踏まえたうえでの満足主義、主観主義、精神主義、なのである。

ところで満之の精神主義の基盤となるのはやはり絶対無限者だ。如来の大きな愛だ。「理論の究極を超えた信仰の実際において、この絶対無限者と接し…」というが、まだ信仰にいたっていないボクにはこのくだりはよくわからない。
ぼんやりどこかがわかりはじめてきても、如来とか大願とかいう専門用語に出会うと冷や水をかけられ、またまた後ずさりしてしまう。

とはいえ、角ばった理屈ではいえないが、なにか霞のかかったようなほの明るい大きな安心感みたいなものが近づいてきているのをやっぱりボクは実感し始めている。冷や水とほの明るさの間を行き来しているのが最近のボクである。ひとつはっきり言えることは、理屈ぬきの時空が存在する、言葉で表現できない世界が存在する、そんなことは以前のボクには理解できなかったが、最近のボクはそれを受け入れようとしている。ボクは死ぬまでにそんなに歳月が残されていないだろうから、厚き信仰、にいたることはきっとできないだろう。ただ、ほの明るい安心、何か大きなものーーそれを絶対無限者といってもボクに抵抗がなくなったーーに溶け込んでいくという確かな予感はある。それだけでも、ずいぶんありがたい。気が楽だ。

老人仲間と飲みながら老いや死について話すことが多くなった。そんなとき、ボクはそういう心の様子をむろんしゃべらない。短い時間で、しかも酒席でわかってもらえるように話す自信がないからだ。性格が悪いかもしれないが、みんなの話を黙って聞きながら、内心≪オレはこいつらにくらべて安心が大きい。ぼかぁ、幸せだなあ≫とつい加山雄三のように呟いてしまうのである。ときには小躍りしたくなるくらい、異常にうれしくなったりする。

先日、古書店をうろついていて、哲学者梅原猛の次の文章に出会った。角川書店版の仏教の思想シリーズ10『絶望と歓喜親鸞〉』に自分の心境を書いている。おこがましいが、ボクもちょっと似ている。

「学生時代に(親鸞教行信証を読んで)絶望をうめきつつ語る親鸞は当時の私には多少理解できたが、自己が光に包まれている喜びを語る親鸞は私には異邦人であった。略。それは幻覚ではないかとさえ私には思われた。今もなお、そういう強烈な光の体験を私が体験したとはいいがたい。略。ただ、当時より私ながらに、やはりはるかに多くの光を信じるようになった。この世で実在しているものは、ただ自己のみではない。自己を超えた大きな光、それを仏といい、神といい、真理といい、実在といってもよいが、そういう光が実在している。そして人間は自己の欲望をみたすより、そういう光につつまれているときに、はじめて大きな歓喜を味わう、というのが私のこのごろの動かしがたい信念となった」 

この光はむろん絶対無限者につながっているのだろう。では絶対無限者とは? ――その正体探しはもうボクはどうでもいいと思うようになった。本ブログ14,5回に登場する神学者北森嘉蔵は「人間の顔をしているほうが親しみやすいでしょう」と神の子イエスキリストの存在を説明したが、ボクは別に人間の顔をしていなくてもよい。
清沢満之は「無数の有限が相寄り相集まって無限の一体を成す。その状態はたとえば人体に似た有機組織である。」という。手や足や顔などの有限が集まって人体という一個の無限が構成される。(282回にも引用した作家玄侑宗久さんの文章を参照)

人間や植物やノラ猫や、生きとし生きるもの、いやそれ以外も含めた一切の有限な個が集まって絶対無限者を構成する。一つの有限が主人公となるときは他の一切の有限がこれを助ける。このようにして全体の無限が機能する。無限と有限は結果的に同一なのだ。
ボクもノラも、有限たちは生や死を超えてそれぞれが絶対無限者につながっている。……つまり、ボクやノラは絶対無限者でもあるということだ。うん、この筋書きはなかなかいい。(つづく)