290 無限を信じる(12)子猫の母子 子猿の母子

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 290
290 無限を信じる(12)子猫の母子 子猿の母子

前回の清沢満之の論説『倫理以上の安寧』は簡単にいうと、「倫理の世界では、あれも自分の責任、これも自分の責任というような煩悩に陥り、心に苦悶の絶え間がない。しかし、すべてを如来にまかせたものは、自分の責任というものを持たない。ひとえに如来の導きに従うまでだからまったくの無責任である。ここに倫理以上の大安心のよりどころがある」という意味だった。

これを読んで旧師の加藤弘之が手紙をよこした。加藤は満之が東大時代の総長で、帝国学士院の初代院長でもあった。「この論説はたいへんおもしろいが、簡単すぎる。もう少し詳しく話を聴きたいので、私の方からそちらへ訪ねてもよい」という趣旨だ。
こちらに来てもらうのは師に失礼だが、満之も病状が重く出向けない。自分の代理に弟子の暁烏敏を遣わした。
このときのことを暁烏は「清沢先生は紹介状に〈この男は私と同じ考えを持っている。この男の言うことはすべて私の説と思っていろいろ聞いてください〉と書かれた。こんなに弟子を信じる人は多くあるまいと思います。先生が亡くなったとき法名を信力院としたのは友人門弟のみんなが先生にこの信を感じていたからだと思う」と語っている。
終生、唯物論者で通した加藤が清沢の如来任せの他力主義をどう考えたかはわからない。

横道にそれるが、仏教(真宗)の他力について。
仏教辞典には「世間一般には自己の主体性を放棄して他人の力だけを当てにして物事を成し遂げようとする依存主義のように用いられることがあるが、誤解である。あくまで自力を支え自力の根源をなす超越的な力を意味する」とある。自分は努力しないであなた任せ、天任せ、無責任主義をいうのではない。自力の限りを尽くしたうえでの他力主義なのである。

これに関連してちょうどいい文章がある。
本ブログ283回でも紹介したが、姜尚中(カン・サンジュン)東大教授の、少し前ベストセラーになった「悩む力」に出てくる。姜さんは宗教、とりわけ仏教に縁はなさそうだが、似たようなことを言っている。
「自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいはそれしか方法がないということを信じる。略。言うなれば、1人1宗教、自分が教祖なのです。」
 悩み続け、努力したあげくに信じる、それが他力主義なのである。

 もうひとつ、仏教学者で世界に禅を広げたことで知られる鈴木大拙が欧米人向けに説いた〈他力〉を引いてみよう。キリスト教といういわば自力主義になじんだ人たちを相手にニューヨークで講義した。難しい仏教用語を極力つかわず、なんとかわかってもらおうと努力しているのがうかがえる。
 
 「〈自力〉は救済の仕事において人間が神と同じく自分の量を分担しなくてはならないという説だ。真宗の〈他力〉はその反対である。
両方の違いはたとえば、猫が自分の子を運ぶとき、母親は子猫の首を口にくわえて一匹一匹ある場所から別のところに移す。子猫たちはただ母親のなすがままに任せ切っている。これが他力である。

 子猿の場合は母親の背に乗せて運ばれるので、母親の体を手足や尻尾で捕まえておかねばならない。母猿が独りで仕事をしているのでなく、子猿も自分の分をしている。両者が共同でしているから自力だ。
 ただしわれわれ自身の内にその他力が働いていることを自覚せねばならない。その自覚を得るには、すべての努力を尽くさねばならない。われわれは自分のなし得るすべてをしてしまうまで如来に会うことはできない。自力を出しきってはじめて自力の無効を自覚でき、そこまで努力した人がはじめて他力の働きを自覚できる。

 自力で順調に進行している間はそれでよい。しかし必ず障害がたちはだかる。社会はだんだん複雑になっているので障害も複雑多岐にわたる。そのとき私たちはどうしようもない不安と絶望にさいなまれ、自力の限界を知る。他力が出現するのはそんなときだ。」

自力でかなわぬ障害といえば、キリスト教もおなじなのだろう。本ブログ14回で紹介した北森嘉蔵牧師の「人生にはタライの水をひっくりかえしたようなどうにもならぬ一大事が起こる、そのときはじめて宗教が必要になる」という話とも共通する。

 さらに大拙小林一茶の句を引用して他力を説明している。
 〜〜〜ともかくも あなた任せの 年の暮〜〜〜
 当時、借金は年末に一括して払う習慣があったが、一茶にはそれが払えない。払えなければ破産してしまう。その難儀の最中に、ええい、ままよ、なんとかなるだろう、俺(自力)はやることはやった、やり尽くした。もうやれることはなにもない。このうえは運を天に任せて、自力以外のなにものか――他力にお任せするほかはないではないか、と開き直った心境だ。
 実際、一茶には金銭にまつわるいろいろなトラブルが伝えられている。世俗的であったにせよ、大いに苦しみ努力は尽くしたのであろう。大拙は「この句には宗教的意味はないが…」と断りながら、自力の果てに他力に頼らざるを得ない人間の心情を説いている。(つづく)