289 無限を信じる(11)先生は痰壺片手にカルタ取り 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 289
289 無限を信じる(11)先生は痰壺片手にカルタ取り 

清沢満之がたとえばキリスト教内村鑑三や、弟子の暁烏敏に比べても知名度が低いのは、短命だったことのほか、自分の内側、内面にこもり、外側――社会的な活動が少なかったからとされる。その数少ない社会活動のなかで例外なのが弟子たちと起居を共にしながら展開した「精神主義活動」だ。スタートから満之が死ぬまであしかけ3年ほど。短い期間だったが,日本の宗教史上、特異な光彩を放ち、満之の名を不滅のものとした。

満之は在京中、東京本郷にある本願寺系の寄宿舎に仮住まいしていたが、そこに満之を慕う後輩や教え子たちが各地から次々集まってきた。後に宗教、哲学界で日本を代表する暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎、曽我量深、金子大栄などもここから出た。
寄宿舎は満之の私塾となり、「浩々塾」と名付けられた。その経緯を暁烏敏はつぎのように振り返っている。
「私が真宗大学にいたころ、学友たちとよく在京中の清沢先生のことをおうわさした。そして卒業したら、おそばに行って、先生を中心に仏教の雑誌をつくろう。難しい術語や専門用語をつかわずに一般の多くの人たちにわかりやすく仏教の教えや精神を伝える運動に広げようということになった。」
こうして明治33年、のちに清沢門下の三羽ガラスといわれる暁烏、佐々木、多田の3人を皮切りに、多くの気鋭の俊才たちが集い、ユニークな共同生活が始まった。

満之を囲んで遠慮のない若々しい議論が日夜ぶつかり合ったらしい。愛弟子たちがそれぞれ書き残している。
「先生は各人の性格、能力に応じて議論を深めていった。ある若者には学問の知識そのものを、ある者には徳の天地を、またある者には信の天地を教え、ついに絶対の仏の世界にわれわれを導びかれた」
「先生の舌鋒は容赦なく厳しく、ときには罵りも混じる。悔しくて目がくらみ、ついにこちらが負けると、先生は大笑いされる。われわれは憤怒する。しかし、あとになってよく考えれば、先生の考えが理路整然として正しく、感謝の気持ちがこみあげてきた。」
むろん、弟子たちもへこたれなかった。師に体当たりした。満之は病身だ。あまりの議論の激しさに満之の友人たちは満之の体を気遣って弟子たちに注意することもあった。

しかし、満之は議論一方の堅苦しい先生ではなかったらしい。温かくにぎやかでくつろいだ雰囲気も愛弟子たちは伝えている。
「議論するとき、私はつねにあぐらをかいた。先生は正座したままだ。そして、われわれのあぐらをとがめる気配はなかった。先生はまるで友だちのように、まことに気楽だった。」
議論だけでなく、団欒の時もあった。囲碁や将棋に興じた。満之は将棋は強かったが、囲碁は弟子に置き碁をされ、躍起になった。
「(結核を患う)先生は痰壺を片手に持って私たちとカルタ取りをした。先生はじょうずだったが、あるとき、痰壺がひっくり返って大騒ぎしたことがある。中学生たちとも先生は無邪気に遊んで下された。」
「花吹雪乱れ入る仏堂で、木犀の香動くなかで、またはサザンカの咲く庭で、番茶を喫しつつ清沢先生の教えを聞いたことは忘れられない。まさしくこの世の浄土だった」

こうした空気を背景に誕生したのが雑誌『精神界』で、彼らの提唱する精神主義運動の中核となるものだった。雑誌作りの助言あれこれは俳人高浜虚子が、表紙とカットは洋画家中村不折が、監修は満之が担当した。

弟子たちの残した記録から『精神界』発刊のエピソード。
:1号発刊のとき、満之が社説を書くことになる。「何を書きましょうな」と先生。弟子たちが「精神主義というのがいいでしょう」。師は「そうしましょうか」と書いた。これがのちに有名な精神主義の一文となった。
:講話も書かねばならない。ところが先生には書いている暇がない。先生は「諸君どうかよろしく頼みます」といって京都に行かれた。それで弟子の多田鼎が前に先生のされた講話を骨子に代筆した。そのなかに小説〈小公子〉のなかにある挿話を紹介した。ところが先生はその小説を読んでいない。京都から帰ってきた先生は「こんな小説は知らない。ちと読んでおかねば」と改めて読まれた。

師弟の信頼関係の絆がよくわかる。
もっと極端な例が11号の社説のケースだ。そのころ京都にいた満之にある人が「今月の精神界にひどいことを書きましたな」といった。じつはその社説は満之の留守中に弟子の暁烏敏が代筆したものだ。さっそく読んでみると、姦淫したいものは姦淫しろ、強盗したいものは強盗しろ、そのままに如来は救済したまう、などと書かれている。満之もこれにはちょっと驚いた。暁烏に「悪くはないが、言い方が極端だ」と手紙を書いた。その後、この社説への非難が相次いだ。満之はむろん、暁烏が書いたなどとは言い訳せず、すべて自分で引き受け、反論につとめた。このなかに後年有名になった『倫理以上の安寧』という論説もあった。(つづく)