288 無限を信じる(10)思うようになるもの・思うようにならないも

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 288
288 無限を信じる(10)思うようになるもの・思うようにならないもの 

奴隷の哲人エピクテトスについては本ブログ41回の「なぜボクはロックフェラーの家に生まれなかったのか?」にちょっと触れている。
「世の中には自分の力の及ぶものと、及ばないものとがある。その見分けが大切なのだ」というくだりである。

ボクがロックフェラー家のような金持ちの家に生まれてくればどんなよかっただろうか、とか、ハリウッドスターのような男前に生まれたかったといくら嘆いてもはじまらない。ボクは日本のふつうの家の、イケメンでもない子どもとして生まれてきちゃったのだもの。こればかりはボクがどんなに努力しようが、徹夜で勉強してもとりかえしがつかない。諦めるほかはない。

エピクテトス語録は不遇の清沢満之の心に沁み通ったらしい。満之は繰り返し読み耽り、英文のまま書き抜きもしている。

:「自分の力、努力で思うようになるものと、ならないものがある。思うようになるものとは、自分の意見、動作、喜ぶ、厭がる、など。
思うようにならないものは、身体、財産、名誉、地位の類である。自分の振る舞いに属するものと、属さないものの違いである。
思うようになるものに対しては何ら制限、妨害を受けない、だれがなんといおうと私の自由である。一方、思うようにならないものに対しては、私は奴隷だ、他者の手のひらに乗せられている。
この区分をわきまえないといたずらに悲しみ嘆き、泣かねばならない。けれど、区分を守りさえすれば人に傷つけられず、人を傷つけることもない。私は自由自在、天下無敵だ」

:「病気や死、貧しさは、思うようにならないものだ。土器は破損することもあるし、妻子は別離することもある」

:「思うようになる範囲を守っている者は、つねに勝ち、しかも争うことがない」

:「私をそしり、叩く者が私を侮辱しているのでない、他人のこうした行為を気にし反論しようとする私の思いが私を侮辱しているのだ。他人の嘲り、辱めを覚悟しなくてはいけない。」

このころ、後輩に宛てた手紙には「エピクテトスの言葉には刺があるが、われわれの胸深くこびりついた疾病を治すのに効果がある。ひとくちにいえば、死生命あり、富貴天にあり(生死も、財産や地位も、天命によるもので自分がほしいとおもっても自由にはならない)、ということだ」と書いている。

仏教には〈苦において自分を問い、思索を深める〉という心の修行方法がある。自力主義だった満之はエピクテトスの書を仏教的な思索で読み進め、他力信仰へ融けこませていった。
その後、日記には断片的に次のようなことが書かれている。
「自分の日常には意のままにならぬことがたくさんある。病気、死生、他人のそしりや悪口、人間関係などなど。しかし、それで失望、悲嘆、煩悶するのは奴隷的しぐさだ。なぜなら、それは自分ではどうにもならない〈他人や外物の動きをあれこれ想像し、くよくよし、気にいられようと追従することだからだ。」
他人、外物、妄想。この三つが真実の自分の自由を奪っている。それに惑わされねば天下無敵だ。

奴隷のエピクテトスは主人から「お前は俺の所有物だ、焼いて食おうが煮て食おうがお前はどうすることもできない…」式のことを言われた。そのときの彼の答えがエピソード風に伝わっている。そのことをなどりながら、満之はつぎのような趣旨を書いている。
エピクテトスは主人に「あなたは私の何をつなげるのか、足だけだろう。私から何を奪えるのだ。私の首だけだろう。あなたがどうしようとも私から奪えないもの、自由にならないものが私にはある。それは私の自由な意志だ。こればかりは私の自由であり、何人も侵すことができない。」

仏の知恵とエピクテトスから学んだ有限と無限。両者が重なり、満之は日記に書く。

「自分とは絶対無限の仏の本願・愛によって与えられた境遇を生かされている。死や生についてあくせく心配することはない。死や生でも心配することがないのだから、これより小さなことに何をわずらうことがあるのか。仮に心配したとしても自分ではどうすることもできない。」

「宇宙万有の千変万化はすべてふしぎだ。色も香も決して色香そのものから生じるのではない。みなことごとく絶対無限の他力にほかならない。」

「考えてみれば絶対無限の他力はふしぎだ。ふしぎはふしぎでいいではないか。ふしぎはふしぎにまかせておいて、私はひたすら絶対無限が私に与えてくれたものを楽しもう。外物に惑わされず、独立した自分の分を守ればよいのだ」
(つづく)