285 無限を信じる(7)病身をおして改革運動に乗り出す

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 285
285 無限を信じる(7)病身をおして改革運動に乗り出す

清沢満之の禁欲生活は徹底していたらしい。
食事は菜食主義に。さらに進んで塩を絶ち、そば粉を水にとかしたのを主食に松ヤニをなめる。
修行者に興味を持ち、実地に訪ねて探索した。ある時期は妻子を遠ざけ、自身が修行者のようだったという。

ある夏、伊勢で開かれた仏教青年会の講習会に講演を頼まれた。清沢は京都から徒歩でいくことにし、手製の蚊帳もつくった。途中でどこかの御堂に泊るときの用意だ。歩きながら休憩のときは学校の試験の答案を採点するなどした。 
ところが炎暑のためか、栄養不足のためか、途中で一時的に視力を失いかけた。野営ができず、木賃宿に泊ったが、行燈にぶつかる、御膳を飛ばす、箸がみえない、大騒ぎになった。やっと講習会事務所になっている旅館に着いたが、身なりから乞食僧と間違われて閉めだされるハプニングもあったという。

このころ仏教の信心深い母親が49歳で死去した。満之は子どもの頃、この母に連れられてよくお寺に法話を聞きにいった。母は篤信の人だったが、「薄紙一枚のところがわからぬ」とよく言った。のちに仏教の学問を積んだ満之から法話をよく聞いたが、最後まで「薄紙一枚のところがわからぬ」という口癖はかわらなかった。仏教は教義や単なる知識、学問ではない、宗教的真理を体得してそれに生きねばならない、ということを満之は母親から教わったにちがいない、と評伝は記している。

満之は母の死以後、一段と厳しい禁欲主義を貫いた。なぜ禁欲主義なのか。親鸞以来の真宗の伝統からみると少し外れている。むしろ自力修行は排すべきことのはずだ。
二、三の評伝には「清沢はともかくも必死で僧侶になりきろうとした」
「世俗を否定して聖なる世界に生きようとする出家の精神の現れ」
真宗の僧侶がだんだんと堕落しているのを嘆き、親鸞の精神を回復し、宗門のほんとうの姿を世に広めたいと日ごろ口にしていた」
「教育者たるべきものの自己修養、ひいては生徒たちへの率先垂範という覚悟が禁欲主義につながった」などと記されている。

のちにひたすら他力主義を説いた清沢も、このころは頑なな自力主義であり、学校の授業でもスマイルズの「自助論」に力を入れたというのは興味深い。また、出家の精神を学びとろうとして当代の名僧を広く訪ねたり、仏典、聖教の書を反復拝読し、とくに親鸞の『歎異抄』を喜んだ、と伝えられている。

厳格な禁欲主義が3年以上も続いた明治27年1月。東本願寺で前法王の葬儀があった。葬儀に参列した僧侶たちは午前2時から午後5時まで寒風の中を立ち続けた。当時流行していた感冒にかかる僧侶が続出した。清沢もその1人で病態は悪化したが、禁欲主義をやめなかった。のちに清沢は「行者気取りでいたものだから、魚肉の類も避け、薬も用いなかった。あの頃の私は我慢の極点に達していた」と友人に振り返っている。
四月になっても回復のきざしがなく、たまりかねた親しい仲間たちがむりやり学校の欠席届に印をおさせ、病院で診察してもらったところ、結核になっていた。やがて喀血も始まった。

仲間たちの奔走で兵庫県垂水に転地療養することになり、父とともに移った。
日々重くなる症状のなかで、満之は自我、自力主義の挫折をかみしめた。
「(病気が)人生に関する思想を一変し、自力の迷情を反転し得た…」と満之はのちに書いている。このとき31歳。それから亡くなるまでの9年間こそが満之の真骨頂だった。結核と共存しながら宗門や教学の改革をめぐる東本願寺とのあつれき葛藤、人情のもつれと相次ぐ家族の死別などなど。公私にわたって苦難と悲惨が押し寄せ、結果的に満之の真価を磨きあげていった。

当時、東本願寺は巨額の負債償却に加えて、大火で焼失した阿弥陀堂などの再建を強引に推し進めていた。教学は二の次だった。かねてから教学の充実を訴える満之らを無視して、本山当局は新たな募金を始めた。それも実際は負債の返却に使うのに名目だけは「教学資金」だった。これまでも度重なる負債返却の募金で末寺は疲弊している。さらに当時の本願寺法主は悪評が高かった。有名な高利貸と比べられるほど暴利を貪っている、妻妾を引き連れて別荘で豪遊するなど不品行の数々、さらに伯爵という世俗の称号を喜んで受けた、などなど。

そのころの著名な思想家、ジャーナリストの高山樗牛は「仏教といえば本願寺を連想し、本願寺といえば腐敗を連想する」と書き、福沢諭吉も『時事新報』の社説で再三、法主の不品行を厳しくとがめ、教団の民主化を主張した。

こうした世論を背景に満之は病身をおして京都に移り、宗門の知的指導者たち6人とともに改革運動に取り組んだ。そのスローガンは教学不振の改善、財政紊乱の改善、法主と側近の責任を問う、の3つだった。真宗大学(現在の大谷大学の前身)の学生たちや、教団の長老である学者たちも応援に加わった。この運動は満之ら改革派が予想もしないほどの急展開で東本願寺系の全国の僧侶たちに広まっていった。(つづき)