284 無限を信じる(6)エリート文学士も校長職も捨てて禁欲主義へ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 284
284 無限を信じる(6)エリート文学士も校長職も捨てて禁欲主義へ

 前回紹介した『宗教哲学骸骨』は清沢満之の代表作である。しかし、後年彼自身がこの著作を批判している。「書かれたのは単に学問だけだ。知識の羅列にすぎない」という理由である。事実、清沢満之が死後、現代にいたるまで高く評価されているのはこの著作の内容によってではない。

 多くの解説書が説明している。
 :『骸骨』はカント、ヘーゲルデカルトスピノザライプニッツエピクテトスを媒介に理論化をすすめたもの。
 :『骸骨』の論理性、抽象性、一般性に対し具体的に肉付けしていく、そのプロセスがすなわち清沢満之の後半生だった。
 :単なる知識一辺倒を超えた安住の信仰にたどりつくため、清沢満之は起伏に富んだ生活体験を『骸骨』に肉付けしていく必要があった。

 『骸骨』に盛られた知識や論理より、その知識や論理を日々の生活で実践し、テスト、実験していった、その清沢満之の生涯にこそ、人々は最高の評価を置いている。
 「極めて自我の強い清沢満之は本来自力の人だった。それが自我につまずき、自我に転び、自我に破れ、憂悶し、苦悩し、やがて内から破れて自力の無力に徹して…だれも意外とするほどの無力主義者となった生涯こそはまったく血をもって描かれた生涯であった。そして当時の青年たちが強く彼に惹きつけられたのは妥協せざる真剣な苦闘に対してであり、今日私どもがいぜんとして彼に魅力を感じるのは彼のこの血みどろの戦いに対してである。」と仏教学者増谷文雄は書いている。

 その生涯をおもに東大名誉教授脇本平也の『評伝清沢満之』からざっとのぞいてみよう。
 明治20年、数え25歳の清沢満之は東大を首席で卒業後、大学院に残り宗教哲学を専攻した。かたわら第一高等中学校(のちの東大教養学部)でフランス史、のちの東洋大学で論理学などを教えた。郷里の名古屋から両親を東京に呼び寄せ一家を構えた。当時、東大出の文学士に対する社会の評価はきわめて高く、非常勤講師として破格の高給だった。社会的経済的に優遇されていただけでなく、洋々たる学者の道が開けていた。

 転機が訪れる。
 当時、京都府立尋常中学校(のちの旧制京都一中)は経営難から廃校の危機に直面していた。知事の依頼で東本願寺が経営費を引き受けたが、生徒にも教師間にもごたごたが絶えない。そこで切り札的に清沢満之を校長にということになった。清沢は僧門の出でないが、幼時から神童ぶりをうたわれ、人材育成に力を入れていた東本願寺の援助で東大にいったという経緯がある。清沢は断ろうと思えば断れた。少し迷ったらしい。しかし、「恩義を受けた宗門の子弟のために」と思いきった。

「そのころ京都は魔界のごとくいわれ、一度京都を出た人は決して帰らないというときだったが、清沢さんは友人にもはからず、独り決然として京都にいかれました」と仲間の一人は書き残している。
同窓生でのちに文部大臣もつとめた岡田良平は「同窓生中、もっとも秀でた清沢君は宗教に入られた。世俗の目より見ると他の者の成功に比べ見劣りするかもしれない。もし彼がみんなと同じ方向へ進めばだれよりも成功したのはまちがいない」と語っている。
 
 東京での大学講師を1年間で切り上げ、26歳のとき、京都中学校長に赴任した。当初の風姿はまさに颯爽としていて、後年の清沢にはふさわしからぬものであったようだ。東本願寺の忘年会での清沢を出席者のひとりはつぎのようにスケッチしている。「いかにもハイカラな、香水をぷんぷん匂わせて、髪を真ん中から分けている、当世風、世間に風を切って動く、一騎当千の男。今日諸君の思われているような大徳の清沢というような風はなかった。」
 いまをときめく「明治の文学士」だった。そのころ地元新聞社がつのった読者投票で清沢は京都の学者三傑の1人に選ばれた。 豪邸に住み、人力車で通勤し、新式な洋服をとりそろえ、山高帽、ステッキ、西洋たばこをくゆらす。こんな生活ぶりが2年間続いたあと、二度目の転機が訪れる。

 突如、禁欲主義が始まったのだ。
 校長を後輩に譲り、自分は分けてあった髪を切り、モーニングコートは法衣に、酒たばこは絶った。ハイカラな洋服はすべて人に与えた。出入りの人力車は廃した。靴は下駄に。毎朝未明に本山に参詣し、そのあと学校へ。左手に数珠、右手に赤表紙の原書と学習メモをもって教壇に立った。教え子でのち著名な宗教家、俳人となった暁烏敏はその初対面のときの模様を大意つぎのように書いている。
 身長低く顔黒く、眼鏡をかけたる僧形にして粗末な黒袈裟。教壇に立つと、服装の割には威厳あり。仏典を講じたあと、洋本を卓に置き「明日よりスマイルズの『自助論』を読む」という。英語を読む人は洋服姿のハイカラさんと思っていたので、年長の学友に「あんな人が英語が読めるのか」と尋ねると、「あの先生こそ文学士清沢満之先生で、以前は校長をされていた有名な人だ」と得意そうにいった…。(つづく)