283 無限を信じる(5)哲学は無限を探求し、宗教は無限を信じる

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 283
283 無限を信じる(5)哲学は無限を探求し、宗教は無限を信じる

 清沢満之は議論好きだったらしいが、無限に対する哲学と宗教の違いについても述べている。
 ――無限を対象に考察するのは宗教、あるいは信念だけなのか。そうではあるまい、哲学や知性、理性も無限を対象にしているではないか、といわれるかもしれない。たしかにそうだ。けれども大きな違いは「哲学は無限を探求する、一方、宗教は無限を信じるのだ」。
 
さらにつぎのように書いている。
 「理性や哲学は無限について探求し、無限を把握するまで追跡をやめない。けれどその対象を把握し認識すると、理性や哲学の仕事は終了する。しかし、その終了したところから信念や宗教は出発するのである。哲学がその仕事を完了するまさにその地点で宗教の仕事は始まる。いいかえれば、信念または宗教は、無限の事実存在を信じることをもって始まり、無限の祝福を享受しようと努力するのだ。」

 無限を客観的に突き放し、あれこれ分析し論理的に詰めるというのが知性・哲学的立場なら、信念・宗教の方は無限と向き合うのでなく、無限のなかに自らが融和していくスタイルなのだ。
 ところで知性・哲学が無限に対する認識を終えた地点からバトンタッチして宗教がスタートするのかというと、必ずしもそうではないと清沢は念押ししている。
 「無限の事実存在をただちに信じることができる人びとにとっては哲学を研究する必要はない。いわば哲学は理性の要求に応え、宗教は信念の要求に応えるのだ」

 これらのことをカント、ヘーゲルに精通した明治の知識人清沢満之が、フランス現代思想の火付け役今村仁司が、力を込めて書いている。ボクはふと立ち止まってしまう。同時に世界的な宗教学者鈴木大拙によって広められた妙好人を連想した。学問はしていなくても仏教に深い信仰をもち内面の充足を得ていた農民、商人たちだ。このことはのちほど触れよう。

 いかにも清沢満之らしいとおもうのは、もし信念・宗教と理性・哲学的なもの、この二つの異なった立場の岐路に立った時はひとまず理性・哲学コースを選べ、といっていることである。
 なぜなら、知性や理性・哲学とは本質的に不完全なものであるが、チェックする方法がある。その時点での正解はつぎの正解によってつぎつぎ訂正されていく。どれだけ思考を重ねても決定打とならないが。
 一方、信念・宗教の方はチェックする方法がない。
いわれてみると、なるほどとうなずかされる。哲学史をひもといてみれば一目瞭然だ。有名無名、さまざまな哲学者がそれぞれの説を立てている。その時点の正解、本流と思われる真理や思潮は、やがて次代の哲学者によって覆される。あるいは訂正されて展開していく。

 元科学少年だった清沢満之はさらに追い打ちをかける。
 つねに訂正の連続であるという理性の特質は、科学の研究・追究にも共通するという。たとえば、と清沢はつぎのように記述する。
ーーなぜAが存在するのか。Bが存在するからである。ではなぜCが存在するのか。Dが存在するからである…。このように科学的証明や論拠の連鎖は際限なく続く。
理性は停止すること、休止することはできない。
もし理性がどこかの地点で停止し休止するなら、それがちょうど信念の地点であるにちがいない。つまり、理性は究極的にはどこかの地点で突き当たりにぶつからざるを得ない。そのとき理性はその基礎づけのために信念に依存しなくてはならないというわけだ。

これは科学と知識のすべてに関して言えることだ。しかし決して科学・理性を否定しているわけではない。信念(宗教)と理性(哲学・科学)はつねに助け合うべきであり、決して対立しあうことはできない。理性は選択と調整を繰り返しながら、宗教・信念との調和に向かうと清沢は強調するのだ。

 少し前ベストセラーになった政治学者、姜尚中(カン・サンジュン)の「悩む力」にこんな文章があった。
「自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいはそれしか方法がないということを信じる。略。言うなれば、1人1宗教、自分が教祖なのです。」
 
 彼はおそらく宗教とは無縁の人に違いない。ここでもとくに宗教や信仰について述べているわけでない。しかし、悩み考えたあげく、これしか方法がない、という地点での自分を『信じる』。信じてよい、信じるほかはない、といっているのだ。この言葉は印象に残る。というか、清沢満之の次の言葉とどこかで共通するものがあるようにおもう。

清沢満之は書いている。
「理性・知性・科学による証明はつきることがない。訂正・修正・新発見の連鎖である。そして最終的正解を得られないまま、どこかで停止、休止、頓挫する。そのときまさに〈信念・宗教・信じる行為〉が始まるのである」
本ブログ278回の、元科学者・田辺元の「復活の概念」も、思考と苦悩の果てに突き当たった信念から由来するものであったのだろうか。(つづく)