282 無限を信じる(4)宇宙と人体と無限

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 282
282 無限を信じる(4)宇宙と人体と無限

理数系が得意という清沢満之は、無限と有限の関係を数式のようにこれでもかこれでもかと連ねている。少々、うんざりだが、〈無限〉の枠組みが機械的に絞られていく。ボクのいう「超越したもの」「大いなるもの」という幻想的で正体不明のイメージはおそらく無限の概念に通じているのだろう。

○無限は同類をもたない、一者である。有限は数多くある。
○一者は全体であり、部分が集まって全体をつくる。
○全体は完全であり、部分は不完全である。
○無限は完全であり、有限は不完全である。
○有限=依存=相対=単位=部分=不完全。
○無限=独立=絶対=一者=全体=完全。
○無数の有限者が、ひとつの無限者の身体を形成する様式は有機的構成だ。

この有機的構成をわれわれ人体の組織にたとえて、わかりやすくつぎのように説明している。
さまざまな有限(顔や手足や心臓など各器官)はお互いに独立し、無関心であるが、これらが集まって無限(人体)を構成する。これらの器官(有限)は依存しあい、機能し合ってはじめてひとつの人体(無限=全体)となる。そのとき、バラバラな器官もそれぞれの意味と存在理由を持つようになる。つまり、器官Aは自分の命を維持するためには、器官B,C,D…をもたねばならない。器官Bも同様にA、C、Dをもたねばならない〜〜。

これを応用すると、「われわれの誰もが自分自身を主人公と感じる時、宇宙のすべて、生命体であれ、無生命体であれ、自分のパーツである。あるいは誰かが自分自身を所有者であると思う時、万物は彼の所有物である」
人体を宇宙になおすと〜〜
「宇宙というひとつの無限の中にあって、どの個別も、有限者も主権を持つ。互いに同じであり、また互いに違っている。どの事物も絶対的権利を持って無限全体を等しく包んでいる。」

ボクは本ブログ232回に引用した玄侑宗久さんの文章を思い出した。
「人間の身体には人様にお目にかける一番目立つ部位、つまり顔もあるが、だれにも注目されない足のかかと(踵)もある。顔は本人も気にして手入れをするが、踵は生涯日陰暮らし、ほったらかしだ。しかし、踵は必要ないのか、といえばそうではない。踵がないと歩くことも出来ない。顔も踵も役割機能が違うだけで、どちらも人間にとって欠かすことができない重要なものだ。人間にも顔のような役割の人、踵の役割の人、とある。踵の役割の人は注目されない場所にいるが、宇宙や世界や社会にとってやはり欠かすことのできない重要な役目がある」

この私という人間の身体は、いろんな器官が集まって出来上がっている。そして主人公の私を無限とするなら、その無限を支えるのは私の身体の各部分――手や足や胴体や頭や、その他もろもろの器官たちで、それは有限と呼んでいい。器官同士は独立し、お互いに無関心であっても、結局は相互依存して私を構成し、生かせてくれている。器官にすれば、自分は独立(無限もどき?)し、主権者のつもりだが、実際は他の器官と依存し合って、結果的に私の身体を形成している。そしてこれら諸々の器官を最終的に統率しているのは私(の霊魂)だ。

ここで清沢は宗教の定義のひとつとして、「有限と無限の統一」をあげ、そのうえで、二つのことを強調する。
第一は有限は無限でなく、無限は有限ではない。当たり前のようだが、この二つの異なった要素をしっかり認めることが宗教の出発点だ。
第二は、それにもかかわらず、有限と無限は完全な同一性である。有限は無限であるし、無限は有限である。これが最も大切なこと、宗教の究極の論点だという。

わかるような、わからないような、西田哲学の「絶対矛盾の自己同一」を連想させるロジックだが、清沢は「これ以上は各人が自分自身で考えるほかはないが、その手助けとして」と、つぎの例を示している。
――キリスト教徒とはキリストを信じる人である(分離の段階)、いやむしろ自分自身のなかにキリストをもつ人のことである(中間点の段階)、それでも十分でない。自分自身がキリストである人こそが真のキリスト教徒である(一致・統一の段階)
――仏教徒とはだれのことか。仏陀を信じる人のことである(分離の段階)、いやむしろ自分自身のなかに仏陀をもつ人のことである(中間点の段階)、それでも十分でない。自分自身が仏陀である人こそ真の仏教徒である。(一致・統一の段階)

この間の注釈を書いた清沢満之の原文は読んでいないが、フランス現代思想の日本の火付け役で知られる今村仁司は以下のように現代語訳している。
「最初は、無限は有限のいわば外部であり、有限は無限の外部にある。ついで無限が有限のなかに入りこみ、有限が無限のなかに入る。最後に、無限は有限と一体となるべく生成する、またはひとつである。いいかえると、有限が無限とひとつに成っていく、あるいはひとつである。これが宗教であり、宗教の諸段階である」
このあと、清沢は「宗教は人間の依存感情であり、無限や永遠と一体である感情である」と定義を新たに加えている。(つづく)