280 無限を信じる(2)童謡に息づく何か大きなものの存在

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 280
280 無限を信じる(2)童謡に息づく何か大きなものの存在

言葉であらわすことのできない何か大きな存在――そのイメージを探っていたら、本ブログ168回に紹介した童謡を思い出した。
 
十五夜お月さん」
十五夜お月さん ごきげんさん
ばあやは おいとま とりました♪

十五夜お月さん 妹は
いなかへ もられて ゆきました♪

十五夜お月さん 母さんに
もいちど わたしは あいたいな♪

この歌詞は「わたしがどこにいても、どんな目にあっていても、ちゃんとお月さまは見てござる、この心境、これが来迎と往生の関係だ」と仏教学者が述べている。そういわれてCDを聴いていると、ものがなしいメロデーとともに、この世とあの世の境界のような独特の時空が立ち上ってくる。月光に照らされている私と寝静まった里。いまは私とお月さましかいない…。めいめいがイメージを追えばいいのだろうが、ボクの屁理屈を並べてみよう。

「お母さんが死んだ。婆やも妹も家からいなくなり、わたしはひとりぽっちになった。お月さんはそんなあれこれの事情をみんな分かってくれている。お月さんはあの世だって照らしている。亡くなったお母さんもあの世でこのお月さんを眺めているかしれない。ああ、お月さん、わたしももうあの世に逝ってお母さんに逢いたいなあ」。
つまり、お月さまに来迎(自分の死の到来)を催促し、往生(浄土への願い)をアピールしているーー。

 二つめ。ある宗教会議で韓国の宗教家が日本人の宗教心の特徴をもっともよく表していると発言して話題になったのが童謡「夕焼小焼」だ。

♪夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
おててつないで みなかえろう
カラスといっしょに かえりましょ♪

♪子供がかえった あとからは
まるい大きな お月さま
     小鳥が夢を見るころは
     空にはきらきら 金の星♪

 鐘は、この世の滞在の終わりを告げる。子供たちは隠れん坊や鬼ごっこをまだ続けたくても、そろそろやめねばならない。もっと遊びたくても、家に帰らねばならない時刻がきた。あの世へ旅立つのだ。ご来迎だ。
だれが鐘を鳴らしたのだろう。帰る時刻を決めたのだろう。それはお父さんやお母さんよりもっと大きな大きなだれかだーー。

いじめっ子もいじめられっこも鬼さんも、浄土へ行くときはみんな同じだ。手をつないで、仲良く往生する。この世で演じていたキャラクターはご破算。仮面を脱いでほんとうのいのちに戻るとき。
そして子供たちのざわめきが過ぎたあと、ただ、お月さまだけがひとり満天下を照らしている。
 「カラスも一緒に」、というくだりにも注目したい。
人間だけではない、カラスも同じいのち、みんないつかこの世を去ってどこか別のところへいくのだ。この世ではたまたま、人間とカラスにわかれていても、じつはみんな同じいのちなのだから、そこではいっしょになるのだ。

三つめは「あした」という童謡。このなかにも大きなだれかが息づいている。

  ♪お母さま
  泣かずにねんね いたしましょ
   赤いお船で 父さまの
  かえるあしたを たのしみに♪

  ♪お母さま
  泣かずにねんね いたしましょ
   あしたの朝は 浜に出て
   かえるお船を 待ちましょう♪

  ♪お母さま
  泣かずにねんね いたしましょ
   赤いお船のおみやげは
   あの父さまの わらい顔♪

CDには『美しく歌いやすいメロディーだが、なんて礼儀正しい言葉づかいだろう。赤い船に乗ったお父さんが明日帰ってくるのになぜこんなにさびしいメロディーなのだろう、と不思議なのです』と解説がついていた。

ボクも子供のころ、両親がけんかした夜とか、父親が戻ってこないとき、心さみしい時、この童謡を口ずさんだのを思い出す。さみしいメロディーと「泣かずにねんね」とか「父さまのかえるあした」の歌詞に無意識ながら癒しを求めていたのだろうか。
お父さまは明日になっても帰ってこないのだ。それはわかっているけれど、帰ってくると信じて、泣かずにねんねするほかはないのだ。ねんねしていると、お母様やボクよりうんとうんと大きな大きな何かが、きっと助けてくれる…。
その何か、とは何なのだろう。(つづく)