279 無限を信じる(1)言葉も記号も1万年後の人には伝わらない

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 279
279 無限を信じる(1)言葉も記号も1万年後の人には伝わらない

一見したところ、ヒッピーの兄ちゃん風のイエスさんをまさか神の子とは信じられない。他人のために自分の命を捨てて尽くした人であることは事実らしいが。彼のパパなる神が天に存在していちいちわれわれ人間の煩雑な俗事に采配してくれているとも思われない。
一方、仏教ではあの有名な歎異抄を開いても最初の一行からたちまち疑問符である。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて…」
そもそも〈弥陀の誓願〉とは何か。この個所が歎異抄全体の大前提となっているが、ここがいちばんミステリアスである。弥陀は阿弥陀仏のことで元の身分は国王。一般大衆の救済を願い、大衆のすべてが救われるまでは自分は仏にならないと願を立て長い長い歳月を思索と修行に努めた。その甲斐あって大昔、仏になった。だから私たち大衆はすでに救われているのだ、という筋書きである。

ミステリアスなのは聖書も同じだ。海水が真っ二つに割れ、海底に逃げ道が出来たとか、イエスが死後復活したとか。いずれも大衆にわかりやすく教えるためのたとえ話である。
ここで注意したいのは仏教にはキリスト教のような神は存在しない。仏といってもあくまで人間の出身である。われわれと同じ人間が、無茶苦茶な長い時間をかけて仏になったというのである。神と違って同じ人間仲間という親しみはあるが、これとて突拍子もない条件がつく。カレ(法蔵菩薩)はなんと5劫(43億2千万年の5倍)もの長い時間をかけて修業してやっとこさ仏になったという。たとえ話なんだ、物語なんだと割り切って信じようとするが、どうしても水をさされる。

ではお前は神仏などというものはいっさい信じないのか、といわれるとどこかであいまいさが残る。
たとえば自分ではどうすることもできないような出来事――家族が危篤状態になったとか、福島の原発事故が早く復旧してほしいとか、そんなとき、具体的に役立つはずはないのに、つい、人間とは違う、もっと大きな存在、何かにすがりたい気持ちがある、祈りたい心境にもなる。この相手はいったいだれなのだろう、何者なのだろう?
子供のとき、他愛ないことだが、人に隠れてこっそり悪いことをした。この行為は自分しか知らないはずだ。そう思っていても、だれかにのぞかれているようなうしろめたさ。こんなことはだれしもが思い当たることだろう。自分しか知らない秘密なのだが、しかしだれかが知っている。それはだれだったのだろう?

この間のあいまいで微妙な心の動きは、言語という記号で論理的に説明することはやっぱりできない。神とか仏とかを単純明快に肯定するにしても、否定するにしても、割り切れない残された部分の方が大きい。

「はじめに言葉ありき」は疑うべくもないし、人間と動物を分けるのはまさに象徴的なシンボルとしての言語・記号を人間が発明したからこそという定説はその通りだろう。だが、人間の心の動きを言葉がくまなく網羅できるかというとそれは疑問だ。ましてそれを正確に他人にメッセージするのは不可能だろう。
横道にそれるが、言葉や記号の無力さ、伝達能力のはかなさについて、チェルノブイリや福島の原発事故で話題になった世界的な社会学ウルリッヒ・ベックの著書「世界リスク社会論」に興味深い記述がある。
アメリカ議会がある科学委員会に、1万年後の人たちに放射性廃棄物の最終処分場の危険性を伝える言語や記号を開発するように要請した。物理学、人類学、言語学脳科学、心理学、分子生物学、考古学、芸術など各分野の専門家が集まり検討したが、「そもそもそれまでアメリカという国家は存在しているのか」という基本的な疑問から始まり、結局1万年後の人たちにメッセージを伝える言葉も記号も考え出せなかった。

人類最古の記号をお手本にしようとストーンヘンジやピラミッドの遺跡、ホメロスや聖書についても研究したが、これらの記録はせいぜい数千年止まり。1万年を超えた未来の人間との対話は不可能なことがわかった。
人類学者たちは「髑髏(ドクロ)の図案」を記号に使うことを提案した。人類共通の〈危険信号〉として現代も一万年後も有効ではないかというわけだ。だが、歴史学者からは、かつて錬金術師たちは「再生復活」を意味する図案に使っていたと反論された。また、心理学者からは、3歳の子どもたちにドクロの図案を瓶に張り付けてみせると「毒だ」と不安そうにしたが、同じ図案を壁に貼り付けると、今度は「海賊だ」と喜んだという実験結果が発表された。

人間の心の動きはこのように微妙で、はかなく、他者に伝えにくい。
言葉という記号では明確にあらわすことのできない、そして自分以外の人間に説明しきれない何かをボクたち一人一人が心のなかに抱いているのだ。(つづく)