278 死の哲学(19)「イワシの頭も信心から」とどこが違うか?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 278
278 死の哲学(19)「イワシの頭も信心から」とどこが違うか?

 二人の文通が始まって五年たったころ、田辺元野上弥生子に初めて『死の哲学』の構想を伝える。ここで〈復活〉の概念が登場する。
 「キリスト教徒でもない私が復活を口にするのは空語でないかと疑われるでしょう。いまではキリスト教内部でも神話排除の主張がある。まして科学を尊重する私が…。いままで私はこの点を超えることができなかった。しかし、妻の死がこれを可能にしたのです。〈復活〉は客観的な自然現象ではなく、愛によって結ばれた人格の主体性において現れる霊的経験すなわち実存的内容として証されます」

 その1例として田辺元はマグダラのマリヤがキリストの復活を信じた霊的体験を持ち出す。霊的体験にしろ、自分が主体的にそう感じ、思い、信じ、行動するとすれば、それでいいではないか。他人が何と言おうとも自分にとってそれは事実にほかならない。

「このように死せる妻は復活して常に私の内に生き、主体的に私の生きる原理となっているのです。」
復活するのは妻だけではない。多くの聖者が田辺の内に復活し、主体的に田辺の存在原理となっている。本ブログ269回で引用した〈聖徒の交わり〉、つまり教会のいまの信徒も亡くなった信者もひとつの共同体として交わり続けている状態だというのだ。――自分はまさしく、亡くなった聖者、信徒、そして妻とともにある。
これは神話ではない、たとえ話でもない、厳然とした霊の秘密だ。これを神秘的と批判するなら、〈時〉そのものが、〈歴史〉そのものが、神秘的といわねばならぬーーと田辺元は開き直ったように強調する。

(ボクの注・ここは肝要なところだと思う。簡単にいえば、自分が心底からそう思えばそうなのだ。まわりからどう見えようとも関係ない、それは自分にとって唯一の事実なのだといっている。「イワシの頭も信心から」とどこが違うのか。一歩間違えばイカサマ宗教になってしまうが、考えて考えて考え抜いてそこに至れば仕方ないではないか。それ以上は言葉では尽くせないのだろう。言葉という記号で表現できない、伝達できない人間の心、境地というものはたしかにある。)
弥生子はこう返事する。
 「先生のおっしゃる復活の意味はよく理解できます。とくに奥様との愛によって結ばれた人格の主体性において現れる霊的体験として証明されているのはさもありなんと存じます。北軽井沢の3尺の白雪の中で先生が実存内容として復活しているとおっしゃる奥様、そしてもろもろの聖者たちとの交わりに生きていられますのは先生の晩年の最上の幸福と存じ上げます。」
 
しかしそのあとチェックするように続けて書く。
 「しかしそれは先生の今日までのさまざまな御苦しみを通してはじめてえられた境地であり、誰もが到達できるものでないと信じます。もし安易なこころでそんな事を思い、その可能を信ずる人間があれば、不遜も甚だしい。先生からご覧になれば、私などまだまだその資格がなく、泥の中を這いまわっているようにお見えと存じます」
 
復活は考え抜き、苦しみ抜いた果てに実現するものだ。それを経ないなら、イワシの頭になるという警告である。同時に、野上はまだ自分自身は復活を、つまり「死の哲学」を信じていないと言っているのだろう。
 ただこうも書いている。
 「…こうして死はつねに参り、むしろ死にとりまかれて生きておりますのに、むしろ生きていることはつねに死に証明されているのに、それが自分には遠い気持、というよりうち震うような実感がなくて、なんとなくそれですましてしまう人間の愚かさに今更驚かれます。…〈死の哲学〉はほんとうの意味で〈生の哲学〉であろうかと推察されます。」
 
冬、弥生子は東京に帰っている。元は零下十度を超す寒冷地で隙間風に悩まされ、鼻、喉の疾患に苦しむ。弥生子は電気ストーブを送ろうという。元は中世修道僧のような禁欲主義を自分は慕っている。また夜半から明け方は寒くて眠れないが、それは「死の哲学」を思索する時間を与えてくれているのだと感謝することにしている、と断る。

 友人やアインシュタインの相次ぐ訃報を聞いて元は「次は自分の番か。ぜひ生きたいとも思わないが、死別の悲しみは複雑だ。私のような孤独な人間は自分で自分の死の準備をしておかねばならない。むしろ生も死の準備と…」と書く。弥生子は「…人間は死ぬに決まっているが、死ぬまでは生きることは確実だ。その真理を支えに生き得る最後の日まで生き抜くべきだ。先生は生も死の準備とおっしゃいましたが、少ない余命を最上に有意義に生きてこそ、迎える死にもよい整備がなされるわけと存じます」

 加賀乙彦の解説文によると、元の身辺の世話は梅田という夫妻がしていたが、元との間で衝突が絶えなかった。そのたびに弥生子が仲裁にはいっている。
1961年元旦、元は右手が少ししびれるので梅田の細君に床をとらせて横になった。そして細君が止めるのも聞かず、入浴し、浴室で倒れた。知らせを聞いた弥生子は息子らと連絡を取り、最良の医師を選び往診してもらった。元は寝台自動車で群馬大学付属病院に入院した。梅田夫妻が病室で寝泊りして看病に当たった。こういう手配はすべて弥生子がてきぱきとした。診断は脳梗塞で軽い言語障害がある程度だったが、その後幻覚が出るようになった。

 弥生子はしばしば見舞いにいったが、翌年4月29日に見舞ったときは昏睡状態で、その日のうちに死去した。享年77歳。弥生子はそれから22年後に99歳で死去したが、毎年欠かさず北軽井沢に滞在し、執筆と散策の場とした。
梅田夫妻は元の死後、弥生子の掃除洗濯をしていたが、弥生子の没後、山を下り、子供たちのもとで暮らしたという。(おわり)