277 死の哲学(18)老いらくの恋〜〜しずこころなき昨日今日かな

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 277
277 死の哲学(18)老いらくの恋〜〜しずこころなき昨日今日かな

 田辺元は60歳になった昭和20年3月京大を退官し、敗戦がまじかな7月に北軽井沢に移った。以後ここで隠遁的生活を過ごし、五年後文化勲章を受けた時も代理出席ですませた。門下生たちが寒冷地での健康を気遣い箱根などへの転地をすすめたが、頑なに断った。
「下界へ下りて敗戦後の日本の退廃ぶりをみるのは耐えられない。」
帝国大学教授として日本を悲運に導いた応分の責任を感じれば感じるほど畳の上で楽な往生を遂げる資格はない」といったそうだ。

文化勲章を受けた翌年の昭和26年に妻ちよが死んだ。このときから妻の友人、作家野上弥生子との文通が始まる。ともに66歳から76歳まで、文化勲章受章者同士の愛の物語である。300通を超える往復書簡が岩波書店から出版されている。ボクも読んだが、文学、哲学、芸術にわたって高踏で難しい言葉が連なり、その隙間に男女の機微がためいきのようにこぼれている感じだ。加賀乙彦が『美しい老年、美しい恋』と題して解説を書いている。

「65歳を過ぎた二人の人としての交わりは、暖かくこまやかで、男と女の厚情が次第に恋愛に進んでいく様子もほの見えて、これほどの知識人同士が高齢となって、老いらくの恋をするのも珍しく微笑ましく、男女のことは、それほどの基礎知識がなくても、よく心情が伝わってきて、興味深く読めた。」

野上は別荘として、田辺は隠遁地として、北軽井沢の両家は谷を挟んで歩いて10分ほどの近所にあった。弥生子ははじめ、田辺夫人の千代と付き合っていた。主人の元は気難しく癇癪持ちだと敬遠していたのだ。その後、野上は夫を、その2年後田辺が夫人を亡くし、弥生子が夫の三回忌を回顧しつつ元の悲しみを慰める形で文通は始まった。

元から弥生子へ。
○年老いて寡夫となりし我を憐れむ 君が情はおほけなきかも
○我を励まし力づくる君は同年の われより十も若くみえさす

弥生子から元へ。
○寂しさを生きぬく君とは知りてあれど 一人おきて去るは悲しかるべし
浅間山ただよふ浮雲の しずこころなき昨日今日かな

加賀はこの四首をあげ、「男女のこの感情の動きを恋愛でないとは言えない。はっきり老いらくの恋である。常の手紙には知的な文脈がかっていて感情の流露は抑えられているが、歌や詩になると、直截な思いの流露が現れてくる」と言いきっている。

もうひとつ、弥生子から元への詩
○あなたをなにと呼びましょう
 師よ
 友よ
 親しいひとよ。
 いっそ一度に呼びましょう
 わたしの
 あたらしい
三つの星と。

 当初から弥生子は哲学者元に話をうかがうという姿勢。元も文学者弥生子を尊敬していたが、学殖の豊かさ、深さで元が越えていて、元は相手を〈奥様〉と呼び、弥生子は相手を〈先生〉と呼んだ。この関係は元の死まで変わらなかったが、心情は微妙に推移していく。

「男は妻を失い、女は夫を失い、二人は自由であった。すぐ近くに住み、行き来は容易である。最初の働きかけは元のほうである。ふらりとやって来て、数首の歌を渡したのである。女はそれを受けて返歌する。詩をつくる。しかし、そこには節度があった。想いのたかぶりをつつましく抑える知的会話があった。弥生子の日記には『私たち師弟の関係は、これで新しい友情に進展した。この点をつつましく守りぬくのが賢いだろう』とある。元にとっても弥生子にとっても、知的な会話、知的な往復書簡。それがなによりもの楽しみにであった。それをこわすような冒険には踏み込みたくなかったのだ。」

このころ、元は「死の哲学」の構想を、弥生子は戦争中から取りかかっている大作「迷路」の創作に余念がなかった。
「奔放な熱情と発散によるよりも、重い思念と抑制によって恋愛の喜びを永続していくほうが二人にとって好ましかった」と加賀は書いている。(つづく)