276 死の哲学(17)3人の学者の妻・それぞれの愛と死

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 276
276 死の哲学(17)3人の学者の妻・それぞれの愛と死

 日本の代表的な哲学者、西田幾太郎はおびただしい家族の死に囲まれている。
 肉親の最初の死を経験したのは明治26年、4歳上の姉がチフスで病死した。幾太郎は13歳だったが、大きなショックを受け、「この時はじめて人間の死が、いかに悲しきものなるかを知った」と後年友人に手紙を書いている。
 その14年後(明治40年)には、次女、五女を相次いで亡くし、さらにその11年後の大正7年から母や長男の死、子供たちの病気とつらいことが続き、大正14年には妻を失った。
 このように幾太郎は生前、多くの家族・肉親の死を経験した。両親の死、四人兄弟姉妹のうち三人の死、八人のこどものうち五人の死…。何度か深い鬱状態に陥った。

「断腸の思いいまだまったく消え失せないのに、また愛児の1人を失った。…親子の情は格別である。いまだかって知らなかった沈痛な経験を得た。」
「親がこの死を悲しむというごときやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて、何らかの慰安の道を求めしめるのである」
「深く己の無力なるを知り、己を捨てて絶大の力に帰依するとき、後悔の念は転じて懺悔の念となり心は重荷をおろしたごとく、自ら救い、また死者に詫びることができる」
「人生の悲哀という事実を見つめて行く時、われわれに宗教の問題が起こってくる」

 歌も詠んでいる。
 :運命の鉄の鎖につながれて うちのめされて 立つ術もなし
 :しみじみとこの人生を厭いけり きょうこのごろの 冬の日のごと
 :かくしても生くべきものかこれの世に 五年こなた 安き日もなし
 :愛宕山入る日の如くあかあかと 燃やし尽くさん 残れる命 

このような悲嘆を綴っているが、たしかに田辺元の晩年の文章に共通するものがうかがえる。

 妻の死から6年後、52歳のとき、西田は再婚する。この女性はのちの津田塾大学の教師でまだ若かったが、西田を愛し、献身的に尽くしたという。
 西田哲学に〈他者〉が加わるのはこのころからだ。自分が自分のことだけを考える哲学でない。他者を考える哲学でもない。自分と他者を一緒にしたところで考えられる何かがあるのでないか――という問題提起だ。
 ややこしいが、〈絶対の他〉の概念を取り入れてこんな趣旨のことを書いている。
「私が自分のなかに絶対の他者を考えるとき、自分が死ぬことによって生きる。他の人格を認めることで自分はほんとうの自分になる。私の根底には汝がおり、汝の根底には私がいる」
「私は絶対の他において私自身を失う。汝もまたこの他において汝自身を失わねばならない。しかもこの他において、私は汝の呼び声を聴き、汝もこの他において私の呼び声を聴くことができる」

〈絶対の他〉、という概念はいろいろ複雑でむつかしいものらしいが、ボクは勝手に、神とも、自然とも、公平とも、愛とも、はかなさとも、そのつど適当に解釈して文脈を理解したつもりになっている。そして西田の他者とは、妻をはじめ、両親、きょうだいたち、こどもたち、十人の家族の死であり、深い愛で結ばれた新しい妻でもあった。悲哀と喪失を経たあとの再生の哲学ともいえよう。
科学から出発した田辺元もまた妻の死に導かれて、そのような宗教色の濃い西田哲学に近づいていったのだ。

西田、田辺とも「妻」が大きな位置を占めているが、もう一人、亡き妻と二人三脚で医療ミスを追求し続けた上原専碌さん(昭和50年死去)に触れておこう。
一橋大学の学長も勤めた著名な歴史学者だが、夫人の病気をめぐって医師の誤診や病院の対応の悪さなどを指摘。夫人の死後も6年間にわたって言論の場で糾弾した。その記録は『死者・生者』という著作にまとめられているが、献辞には「われらと共存し共生し共闘する妻の霊前にこの書を捧げる」とある。
本書の中にも、「医療ミスを死んだ妻と共に闘う」「死者とともに生きる」「妻の死に徹底的にこだわることは死者と共闘することだ」などのフレーズが飛び交う。

さらに歴史学者らしく、「死者と絶縁して生きる人間は歴史的つながりを崩し、自分を個別の浮遊生物のように空洞化させる」というくだりが印象に残る。
死者、というとなんだか幽霊のような妄想めくが、歴史というキーワードをはめると学問的になる。歴史の教訓とはーー過去の無数の死者たちの貴重な知恵や経験を現代に生かすことにほかならない。上原さんはアウシュビッツで虐殺された人たち、広島・長崎の原爆で虐殺された人たちなどとも連携し、まさしく「死者との共闘」で政治悪、社会悪に打ち勝とう、と呼びかけた。(つづく)