275 死の哲学(16)亡妻の後押しで田辺は西田に再接近した!? 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 275
275 死の哲学(16)亡妻の後押しで田辺は西田に再接近した!? 

 あれほど尊敬し、慕い、傾倒した西田幾太郎になぜ田辺元は反旗をひるがえしたのか。後年、学説の違いが生まれ、そこから感情的なものに発展したといわれるが、学説がどう違ったのか、現代哲学界の最長老、上田閑照・京大名誉教授が懇切に説いている。その結論部分は「死の哲学によって両者は最終的にはつながっていった」となっている。最晩年の田辺はやっぱり西田へ戻っていったという美しい結末である。
 『田辺哲学と西田哲学』と題した40頁の論文から、浅学非才のボクが勝手に理解し解釈できたと思いこんだ部分だけを要約しよう。

 はじめにボクのメモ。
田辺の西田攻撃の第一弾は1930年に発表した『西田先生の教を仰ぐ』である。
この論文が発表される3年前に田辺は助教授から教授に昇格し、その1年後に西田は京大教授を定年退職している。しかも西田はそのときすでに先妻を亡くしている。むろん偶然だろうが、なんとなく田辺の無神経さ、西田には気の毒なタイミングだったように思ってしまう。
 
 さて上田によると、田辺の西田批判のポイントは「哲学の宗教化」だ。哲学はあくまで現実に立脚すべきなのに西田哲学は静止的・瞑想的で実践・現実性が乏しい。そもそも宗教はすべての動を包む「絶対の静」であるのに対し、哲学は静を求める「動」でなくてはならない。それなのに西田哲学には「動」がないというのである。
 この批判に対し、上田は4つの問題点をあげ、専門用語を組み合わせて妥当なところ、妥当でないところを説明しているが、門外漢には難しいのとあまり面白くないので読み飛ばそう。ただ上田判定はどちらに軍配をあげているのかよくわからない。五分五分の引き分けか、いくぶん西田有利というところか。
 
横道にそれるが、以前ボクは田辺をけなした論文を読んだ記憶がある。思想に一貫性がない、宗教に弱い、といったものだった。そういえば、死の哲学の発想にしても、浄土宗、キリスト教禅宗、浄土宗、と往来している。マルクス主義にも関心を寄せている。しかしこれは一貫性がないというより、田辺の現実社会への敏感さ、忠実さに対応しているとボクは好意的に思いたい。
 
 上田論文に戻って、10枚ほど頁をくると問題のちよ夫人が出てくる。「思索の最深部へと田辺を導いたものとしてはやはり、ちよ夫人の死、があったといえるであろう」と述べ、先輩の西谷啓治・京大名誉教授の次の文章を〈核心的な見解〉として引用している。それはこんな趣旨だ。
 「田辺の晩年の思想におけるもっとも重要な概念のひとつである実存協同の思想は生と死との境界を出入りするような形での協同態と考えられるにいたった。この思想の発展には、夫人の逝去が深く関係しているとも推察される。」

 これは抑え気味だが、西谷は別の著書で一歩踏み込んでいる。
 「自分の憶測だが、御夫人は多年にわたって献身的に田辺先生に尽くされて北軽井沢の山の中で病気になられ、長い間寝たきりでおられたが、その御夫人が亡くなった後で、先生はひとり遺骨とともに暮らされていた。その追憶の中から、次第に強い実在感をもって、亡くなられた方がありありと浮かびでてきたということがあるのでないか。〈幽明境を異にす〉という言葉があるが、その境が段々なくなって、死んだものと生きたものとの間を隔てている壁が次第に透明になる。死んだ人が何か非常な現実性をもって生者の心に現前してくる。同時に生きている者の現存在がその死者の現存している次元にまで入ってくる、死者の世界が生者の世界と入り交じってくる…なにかそういうことが想像される。」

 これを受けて上田は書く。
 「夫人の逝去は単なる私事ではない。人間にとってたまたま起こることでない最も親しい人の死という人間存在の一つの根本事実に打撃されて、交わりと生死とが浸透しあう事態に思索が導かれていったのである。死の哲学は大乗仏教の菩薩道…、禅の…」と仏教用語を並べたあと、上田は「このような脈絡のうちに田辺において初めて西田哲学に対するある共鳴が感じられる。少なくともそれまで絶えず厳しい言葉で繰り返されてきた西田批判が死の哲学には現れてこないことはまことに注目すべきことである」
 このあともいろいろと難しそうな比較検討があるが、煩雑なので省略しよう。
 手っ取り早くいえば、田辺は西田哲学を「宗教に偏り過ぎている」と批判し、その田辺は「宗教体験がないのが弱い」と批判されていた。ところが亡妻との実存協同により田辺は仏教に急接近した。その結果、田辺は〈宗教に偏り過ぎていた〉西田哲学へ近づいていったということなのだろうか。

 上田は両者の最終的な関係を次のように締めくくっている。
 「死の哲学に至って田辺と西田は、田辺のほうの思索の急展開によってほとんど合同ということができるであろう」

 うがっていえば、科学からスタートした田辺は宗教に縁遠かった。それが妻の死によってしだいにキリスト教、とりわけ仏教に傾斜していく。そしてもともと禅宗に深くかかわる西田哲学に親和していった。思えば西田もまた、多くの親しき者の死に囲まれて思索を培ったのである。親しい死者を媒介に自らの哲学を切り開いて行ったという点でも二人は共通点を持っている。(つづく)