274 死の哲学(15) 西田幾太郎に傾倒し、やがて対決する田辺元

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 274
274 死の哲学(15) 西田幾太郎に傾倒し、やがて対決する田辺元

田辺元と、西田幾太郎とのぎくしゃくは、日本の哲学史のなかでいまも語り継がれる異色の一頁だ。京都学派の内輪もめなので関係者はだれも声高にはいわない。もぐもぐつぶやくだけである。そのなかで下村寅太郎東京教育大学名誉教授がその周辺の人間関係を、上田閑照京大名誉教授が両者の学説の相違を、正面から伝えている。むろん、双方の顔を立ててどちらも傷つけまいと精いっぱいの敬意と配慮を払う筆遣いで、その気の使いようが、かえって二人の溝の深さを浮き彫りにしている。

下村はこんなふうに書いている。
西田幾太郎の死後、全集を刊行することになり、西田幾太郎から田辺元に出した書簡が注目された。全集の呼び物になるはずだった。しかし、田辺に依頼にいくと、「書簡は全部焼却した」といい、一通も出してもらえなかった。ある時期まで、両者は頻繁に文通し、尊敬しあい、西田は自分の後継者として東北大理学部助教授だった田辺を京大助教授に招いた仲ではないか。やっぱり田辺が提出を拒んだのだ、と関係者の間で波紋が広がった。

その理由はーー後年、西田哲学に対する田辺哲学が確立し、田辺の側からかつて自分を引き立ててくれた西田先輩に対する批判がしつこく、厳しく続けられていたからである。田辺自身は自分の西田批判を、「プラトンを愛す、しかし真理をより愛す」というセリフで正当化していたが、両者の学説の相違はいまや感情的な衝突になっているのは誰の目にも明らかだった。

だが、田辺が西田からの書簡を出さなかったのは感情的な問題でなく、むしろ西田をかばうためであったと下村は田辺を擁護している。というのは敗戦が濃厚になったころ、田辺は一通の手紙を西田に出している。それは戦後の政治的危機に処するために西田を通じて天皇陛下になんらかの意見を届けたいとする内容だったといわれている。戦後になったいま、このことに関連して西田との書簡が明るみになり万一西田に累が及んでは…という田辺の配慮だというのが下村の推測である。

西田は人からきた書簡は保存しない主義だったが、その後、田辺宛てに出した初期の書簡がみつかった。下村によれば、「師弟水魚の交わり」を示す美しい手紙類で、そこには田辺が東北大助教授から京大助教授に招かれるまでのプロセスがつぶさに描かれているという。

当時、東北大には文学部がなく、田辺は理学部で『科学哲学』を担当していた。哲学に関心のある同僚も友人もなく聴講者もきわめて少ない、孤独で張り合いのない日々だった。田辺は東大の学生時代から非社交的な性格で、たいへんな秀才との誉れは高かったが、親密な友人に乏しく、また当時の東大では師事したいと思う哲学教授はだれもいなかった。そんなとき出会ったのが西田幾太郎の著書だった。まあ、田辺に限らず、すぐれた学徒は等しくそうだったのだが。

田辺は西田を全面的に尊敬し、傾倒していった。一方の西田もすぐれた理解力をもつ真の弟子との出会いを喜び、指導を惜しまなかった。西田は京大系、田辺は東大系、と出身大学は異なるが、それを超えて、西田は田辺を自分の後継者として京大に招くことを決意した。文学部設置の機運にあった東北大では設置の際は田辺を教授にする、海外に留学させる、など田辺を引き留める工作を始めた。むろん京大に赴任すると、西田が退職するまで長く助教授暮らしが続く。しかし田辺は地位は意に介さず、西田のもとで勉強することを熱望していた。ただ東北大に対する義理と、一方で京大系をかきのけて助教授に割り込むことに遠慮もあった。

これに対し、西田は田辺のために細心の注意を払っている。
「京大は京都の大学でなく日本の京大であり、自分は有望な哲学青年の発展を望むだけだ。むろん貴兄が独立して新たな道を開かれるというのなら、それもわが国の哲学界のためによいことだと考える。私のことなどに遠慮せずに、自由にご決心ください。それが私ももっともよいと思う」と田辺に懇切な手紙を書く一方で、田辺のため、また東大への礼儀のために、田辺を東大で迎える意向があるかどうか確かめている。
東大卒だが、西田の後輩教授として京大にいた波多野精一は田辺に宛てて「東北大はいまごろになって貴兄を引き留めようとする、東大の態度はあいまいだ。それに比べて、西田は貴兄を束縛するまいと気遣い、しかも周辺には念に念を入れていったん心を定めた以上はあくまでまっすぐに進む。貴兄への思いやり、遠慮、用意周到、しかも公のために一点の私心をはさまない。この熱心と純なる心事を思うと感激せざるを得ない」と手紙を書いている。
こうして田辺は西田のもとに助教授として赴任。(五年後に東大から田辺を助教授として迎えたいと要請してきた。)

これらのデータを連ねながら、下村は「この前後の西田教授らの田辺先生に対する懇切にして親切な配慮は感動的で、かつ公私の礼儀と節度の折り目の正しさも感銘を深くする」と書く。

こうして京都学派は隆盛期へ向かう。
「西田の周囲に人材が次々集まって来た。前歴によるのでもなく名声によるのでもなく、もっぱら西田の思想と人間によるものである。西田の来任によって初めて近代日本の哲学が生まれ、ここがその拠点となった。」
「西田は思想のみならず人材の洞察にも見識があった。その起用に当たっていささかも私情を交えず、直接の弟子の間に求めず、ひたすら日本の学問のために公明正大な態度に終始している。」

――その西田・田辺の交わりが後年破たんするのである。
「田辺は公然と哲学的論議を通して西田哲学との対決を表明した。これに対する解釈と批評は自由に行われるべき哲学史的事件であり、悲劇的ではあるが、内面的必然性において理解さるべきである。両先生の生命を賭した哲学的精進からの必然的所産である。西田哲学の発展も田辺という類まれな清純にして鋭利な批判者の存在が寄与したことも否定できない。それは西田哲学のいう絶対矛盾の自己同一である。」と、なんだかオチのようなものもつけて評価している。
(つづく)