273 死の哲学(14)結婚直後に気付いた夫人の不健康 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 273
273 死の哲学(14)結婚直後に気付いた夫人の不健康 
 
 田辺夫妻を媒酌したのは哲学者安倍能成(のちの文相、新制の学習院院長)である。田辺夫人は安倍夫人の従妹である。なにかと口の端にのぼりながら、ヴェールに包まれた感じの田辺夫妻の個人的事情を夫妻に最も近い人の1人として安倍はいくつか書き残している。田辺の弟子筋の学者の回想から一歩も二歩も踏み込んで「奇形だが、ひとつの傑作」としての夫婦像が浮き彫りにされ、謹直だが、感覚的で不合理な癇癪持ちの田辺の人柄も描かれている。
 
「田辺君が結婚したのは東北大理学部で科学概論を講じていたころだ。今の夫人は私たち夫妻がお世話した二人のうち、田辺君が選んだ。ところが結婚直後、夫人の肉体の不健康に気づいて、田辺君は煩悶すると同時に憤慨し、両親の無責任を攻撃することを禁じ得なかった。両親はのんきなところもあり、発育はよくないけれども別に発病することもなかったので、それほど良心の苦痛を感じなかったのだろうが、田辺君の鋭敏な良心と神経からは、それはゆるすべからざることと思われたのも無理はない。夫人の父は〈下らない親父だとあきらめられないかなあ〉というような態度。そのことに対して田辺君が暖簾に腕押しのようないらだたしさをこの父に対して感じた心境は目に見るようである。しかし田辺君は媒酌した私の責任を質すということはひとつもなかった。
 いま、田辺夫人は病床に伏したきりで、容易に動かしえない状態にある。夫人の病弱が田辺君の心をわずらわしたことは随分大きかったろう。」

 田辺夫人が〈病弱〉とは一般に知られているが、ここまで書かれた文献はほかにない。
『結婚直後』に気付いたとはいったいどういうことなのか。
『煩悶とか憤慨』するほどの不健康とは?
ふつうにいう、不健康なのか、それともなにか特別な意味での不健康なのか、気になるところだが、そこまではだれも書いていない。
 だが、夫人は肉体的ハンディにもかかわらずがんばるのだ。そしてなんとなく田辺の「死の哲学」が生まれたひとつの背景みたいなものを想像する。

「田辺君夫婦は、たしかに外に類のない夫婦である。田辺君がいらだたしい、専制的な態度で夫人をいじめたり、また夫人の生活を自分の家庭以外は親族たちにも遮断したりするということを除くと、田辺君のように夫人をいたわり、愛護し、感謝した夫もないであろう。また夫人がその虚弱ということもあったが、ほとんどあらゆる世間的欲望を断ち、献身的に、このわがままな、敏感な、おぼっちゃん、もしくは赤ん坊のような田辺君に奉仕して、その下に苦しみつつも、父母から伝えられた人の好さとあきらめとをもって、一方で死にたいような苦しみも経験しつつ、いつしか微笑をもって田辺君を静観する余裕をも養い得る用になったことを思うと、田辺君の学問的精進とその業績の背後に、この夫人のあったことを否定できない。その一面、田辺君の夫婦生活のさびしさ、つつましさを思うとともに、他面におそらく、田辺君はこの夫人を得て、初めてあのような学者生活を続け得たことを認めねばならない。田辺君の夫婦生活は奇形ではあるがやはり一つの傑作であり、おそらく今の夫人を外にしては、田辺君とのこの家庭生活に耐えうる女はなかったのであろう。」

 田辺元の人柄、性格についても安倍はざっくばらんな筆遣いながらけっこうシビアな事実を記している。
 「田辺君のことを厳格主義で包んだセンティメンタリズムと友人が評した。田辺君にそれを話すと、彼も同意したことがある。しかし私は田辺君のあまりに非合理な癇癪ぶりをみるとそれはセンティメンタリズムという以上に感覚的だという印象を受ける。たとえば、田辺君が夫人の里にいって泊る。たまたま隣室に家族がいて、話声が読書や睡眠を妨げることがあると、田辺君はカッとなってどなりたてる。私などはそういうことがあると、次にそこに泊るのは恥ずかしいが、田辺君はけろりと忘れてその次にも泊っている。田辺君は潔癖で神経質で、他人の屈託しないところに屈託したりいらいらしたりするところがあると共に、人の気にすることを存外平気でいるようである。」
 
そしてこう付け加えている。
 「田辺君の先輩との不和というようなものを見ても、何か思想的、精神的、感情的というほかに肉体的、生理的、感覚的なところがあるように思えてならない。…こんなこともあった。田辺君に向かって田辺夫人の母が私をほめたところ、田辺君は『安倍のような俗物が』と罵ったそうである。晩年田辺君が学説の相違から、西田幾太郎さんに感情的、あるいは私の表現に従えば感覚的に不和になったのは遺憾である」
 田辺元の人柄、性格のアウトラインがだんだん明らかになってくる。

 ともあれ、夫人の肉体的ハンディがどんなものであったか、わからないが、田辺は煩悶と憤怒、愛憎半ばする感情を、荒々しく独裁的に夫人に投げつけ、夫人の日常生活も支配したのであろう。そして夫人の余命がいくばくもないとわかったとき、天を仰いで「家内が私を救ったのです」と涙したのであろう。夫人の遺骨とともに雪深い北軽井沢の山荘で独り暮らした。癇癪玉を破裂させた分、夫人への哀惜と反省も比例して増幅されたことであろう。夫人を思い出しては嗚咽し、夫人との恵まれた学者生活を振り返り、亡き夫人とともに歩み、思索する実存協同を知らず知らず実践し、『死の哲学』構想へつながっていった。
(つづく